お城からの手紙

お城INFORMATION 検証!住居としての姫路城【建物編】

天下の名城とうたわれる姫路城。要塞(ようさい)として優れた防御機能を備えているのはよく知られていますが、これを「住居」という視点から考えてみると、また一味違った表情を見せてくれます。シリーズ第1回の今回は“建物編”と題して、歴代城主をはじめ姫路城で暮らす人々が日常生活で使っていた空間について検証します。

◆実際は誰も住んでいなかった姫路城のシンボル「天守閣」

一般的に「城=天守閣」というイメージが強いせいか、城主は天守閣の中に住んでいたと考えがちですが、急な階段や狭い通路など、お殿様が生活していた場所にしてはあまりにも不便です。天守閣には住居としての機能はほとんどなく、歴代の城主たちは本丸や二の丸、三の丸にあった御殿で暮らしていたようです。天守閣は戦などの非常時に使われた場所であり、平時は武具や食糧の倉庫、あるいは物見(見張り)程度にしか利用されていなかったといわれています。

◆首相官邸の役割を果たした池田輝政の居館「備前丸」

慶長14年(1609)に白亜の姫路城を完成させた池田輝政は、本丸の一角に建てた「備前丸」を居館とし、内部には城主として客と会見する対面所や輝政の正室・督姫が住む御台所などを設けました。城主の住まいであるとともに政治を行う建物、つまり現代でいう「首相官邸」として使われたわけです。残念ながら明治15年の火災で焼失してしまい、当時の暮らしぶりを知るすべはありませんが、おそらく“西国将軍・輝政”の名に恥じない立派な造り、数々の防御の仕組みを備えていたと思われます。

池田輝政

 ※1 池田輝政(円教寺所蔵)

◆本多忠政が築いた「本城」は居住性を大切にした政治拠点

太平の世となり戦の心配がなくなるにつれて、山頂にある「備前丸」では何かと使い勝手が悪くなったのでしょう。元和3年(1617)に本多忠政が城主になると、居住性を重視した「本城」を三の丸に新築。「三の丸御殿」とも呼ばれる、畳の数1,644枚の広さを持つ書院造りの建物です。金箔(きんぱく)を張った部屋の戸襖(ぶすま)には多彩な絵が描かれ、その絵にちなんでそれぞれ「虎の間」「鶴の間」「雁(かり)の間」「蜜柑(みかん)の間」などと呼ばれました。池田輝政が築いた「備前丸」と比べるとさらに現代の邸宅に近い造りで、城主・忠政の住まいとして、また政治の拠点として、かなり豪華なインテリアを備えていたようです。

マップ

◆豪華絢爛(けんらん)な「武蔵野御殿」は忠刻と千姫のスイートホーム

三の丸には「本城」以外にも御殿がありました。忠政の長男である忠刻・千姫夫妻の居館です。やはり城主とその息子夫婦ですから、現代のような二世帯住宅ではなく、敷地内にそれぞれ立派な御殿を建てたわけです。伏見城の建具や襖などを使った豪華なたたずまいで、「本城」に勝るとも劣らないほどの装飾が施されたといいます。金箔や銀箔が張られた戸襖には、千姫が幼少のころに過ごした武蔵野をしのんで、一面に緑青でススキの絵が描かれていたことから、「武蔵野御殿」と称されました。さらに、三の丸には迎賓館として使われた「向屋敷」、三の丸以外にも「西御屋敷」や「東御屋敷」など、数々の別邸が建てられていました。

貝合わせをする千姫

 ※2 貝合わせをする千姫

◆当時の女性専用マンション 西の丸「化粧櫓(やぐら)」と「長局(つぼね)」

千姫の持参金十万石で築かれた「化粧櫓(やぐら)」は、桃山風書院造りの畳敷きの建物で、中には床の間付きの部屋もあるなど、ずいぶん“生活”を意識した造りとなっています。また、化粧櫓から続く渡櫓「長局(つぼね)」には「百間廊下」と呼ばれる約300mもの長い廊下とたくさんの小部屋があり、千姫お付きの局や腰元が暮らしていたといわれています。いわば姫路城の“大奥”、現代の女性専用マンションともいえる場所で、もちろん男子禁制。板壁や柱には極彩色の絵が描かれるなど華やかさが漂う一方、頑丈な塗り込めの窓や石落としのある隅櫓、廊下を区切る大扉などセキュリティーも万全でした。

西の丸長局(百間廊下) 西の丸化粧櫓

西の丸長局(百間廊下)

西の丸化粧櫓

姫路城には何人暮らしていたの?

内濠(ぼり)に囲まれた内曲輪(くるわ)には城主が住み、内濠と中濠に挟まれた中曲輪には城主の親せきや身分の高い武士が暮らす武家屋敷が並んでいました。中濠と外濠の間の外曲輪には足軽や同心といった身分の低い武士が住む長屋があったようです。城内に何人暮らしていたのか正確な数は分かりませんが、時代ごとの姫路藩士の数は文献に残されています。

池田氏時代(1603年ごろ)は三百石以上の中級武士が500人余り。本多氏時代(1617年〜1639年)には忠政の家来が700人以上、忠刻の家来が500人以上、足軽や小者まで加えると父子で約4,000人になります。榊原氏時代(1649年〜1667年、1704年〜1741年)には合計約3,000人、酒井氏時代(1749年〜1871年)には約2,200人の家来が姫路城で暮らしていたことになるでしょう。

※1 池田輝政(1564〜1613)

織田信長の側近として仕えた後、豊臣秀吉に仕えた。秀吉の仲介で徳川家康の娘・督姫と結婚。慶長14年(1609)に連立式の天守を持つ白亜の姫路城を完成させた。

※2 貝合わせをする千姫

西の丸「化粧櫓(やぐら)」の内部には、千姫が娘の勝姫と「貝合わせ」に興じている人形を展示。茨城県常総市の弘経寺に伝えられる「千姫姿絵」を参考に再現されています。

監修:西村さん

姫路市文化財保護協会理事。姫路城の「昭和の大修理」に携わり、その後も引き続いて文化財の修理と保存に力を注ぐ日々。現在は、後継者の育成にも力を入れ、伝統技術を学ぶ技術者集団『工墨(こうぼく)の杜(もり)学舎』を主宰しています。