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清水公照(しみずこうしょう)について

 清水公照は明治44年1月3日、姫路市郊外の書写山麓の村で、東道家の六男に生まれたことから「睦治(むつじ)」と名づけられました。小学6年で兄の勤める加西市の北条小学校へ転校し、16歳で小野中学校(現小野高校)を卒業後、東大寺塔頭宝厳院の清水公俊の下に入寺しました。これ以後、清水公照と名乗るようになります。龍谷大学で華厳宗を学んだ後、自らの強い意志で天龍寺の関精拙に師事し、禅を学びました。途中、何度もの兵役を挟みながらも、ようやく昭和38年、52歳で東大寺幼稚園の園長に就任し、その際園児の作る紙粘土細工にヒントを得て「泥仏(どろぼとけ)」の創作を思い立ちます。

 また、園児が描く大仏さんの奇想天外な絵に触発されて墨画を描くようになりました。そして、昭和46年には絵日記を描き始め、晩年に至るまで20年以上続きました。このように園児とのふれあいが公照の後半生に大きな影響を与えることになりました。

 昭和50年には華厳宗管長、東大寺第207世別当に就任します。大仏殿昭和の大修理の起工が前年に始まった大変な時期で、修理には莫大な費用がかかるため、その浄財集めに全国を行脚する日々が始まりました。東奔西走の多忙な毎日の中でも、各地の窯元に赴いて土をひねり絵付けをする游戯三昧の心は忘れませんでした。問題に遊び、忙しさも遊びに変えてしまうところは、まさしく公照らしい生き方といえるでしょう。

 東大寺別当を2期務め、昭和55年10月に大仏殿昭和の大修理を成し遂げました。落慶法要の当日は、前日の台風がうそのように晴れ渡り、大仏殿の鴟尾が金色に輝きました。この鴟尾が光り輝くさまを誰よりも感慨深く仰ぎ見たことでしょう。大仏殿昭和大修理の大役を終えた翌年、別当を退任し、宝厳院長老となります。

 その後もテレビ出演や各地へ赴いての講演や揮毫等の多忙な日々は続き、書画、陶芸の作品制作にも一層励むようになりました。また人々との出会いの中で収集された美術品も数多くあり、平成元年、これら公照作品と収集品の多くが郷里の姫路市へ寄贈されました。平成6年7月、郷里近くに姫路市書写の里・美術工芸館が開館し、作品が常設で展示され今日に至ります。当館の名誉館長も務めましたが、平成11年5月、88歳で遷化しました。今日でも各地にその作品は残り、根強い人気があります。

清水公照の写真
清水公照 宝厳院にて(平成5年)


清水公照プロフィール

明治44年(1911年)   1月3日、飾磨郡曽左村六角(現在の姫路市六角)に生まれる
大正11年(1922年) 11歳 余部北尋常小学校を経て加西市北条へ移る
昭和2年(1927年) 16歳 兵庫県立小野中学校を卒業
東大寺塔頭宝厳院に入寺、得度
このころより筆や硯に興味を持つようになる
昭和8年(1933年) 22歳 龍谷大学文学部仏教学科卒業
昭和21年(1946年) 35歳 金鐘中学校、菁々中学校の校長に就任
昭和38年(1963年) 52歳 東大寺幼稚園長・東大寺女子学院長に就任
このころより泥仏の制作を始める
昭和44年(1969年) 58歳 東大寺執事長、東大寺学園長に就任
昭和46年(1971年) 60歳 この年の元旦より毎日、絵日記を描き始める
昭和47年(1972年) 61歳 東大寺整肢園理事長に就任
昭和49年(1974年) 63歳 大仏殿昭和大修理の起工法要を勤修、事業の中心的存在となる
昭和50年(1975年) 64歳 華厳宗管長、東大寺住職第207世別当に就任
昭和53年(1978年) 67歳 華厳宗管長、東大寺住職第208世別当に再任
昭和55年(1980年) 69歳 井上靖、平山郁夫らとボロブドールを旅する
大仏殿昭和大修理の落慶法要を主宰勤修
昭和56年(1981年) 70歳 宝厳院長老となる
平成 3年(1991年) 80歳 姫路市立美術館にて寄贈作品記念展を開催
平成 5年(1993年) 82歳 姫路市芸術文化賞芸術文化大賞を受賞
平成 6年(1994年) 83歳 姫路市書写の里・美術工芸館が開館
平成11年(1999年) 88歳 5月6日逝去



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