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《 姫路発 》お城からの手紙

2022 Autumn vol.89

築城の要は 縄張にあり。

姫路城のアイコン 幾重にも張り巡らされた複雑な 縄張(なわばり)を読み解く

城の基本となる区画のことを曲輪(くるわ)といいます。そして、この曲輪などをどう配置するかを決めるのが縄張です。慶長6(1601)年、池田輝政は姫山での築城に取り掛かるとともに、城下の町割に着手。姫山を中心に内曲輪、中曲輪、外曲輪を同心円状に配し、それぞれの曲輪が堀で区画されるようにしました。そして、外曲輪以内の面積は233㌶。内曲輪に城主の居館、中曲輪に侍屋敷、外曲輪に町屋や寺町を配置しました。また、敵が天守を目指す際、 大きく左回りで向かうしかありません。このようならせん式の縄張は、江戸城跡(皇居)と姫路城でしか見られない貴重なものです。
さらに、姫路城の内曲輪を見てみると、その縄張は、本丸、二の丸、三の丸、西の丸などに分けられます。
姫路城を観光ルートに沿って歩いていくと、どちらの方角を向いていて、どこにいるのか分からなくなってしまうことがありますが、これは内曲輪の縄張に古い形式のものが取り入れられているから。姫路城築城の際、かつて羽柴(豊臣)秀吉が姫山に築いた縄張をそのまま踏襲したことに由来します。本丸に当たる備前丸、北・西北腰曲輪、水曲輪、二の丸の西北部にある乾曲輪、井戸曲輪、上山里曲輪などひな壇状になった秀吉時代の曲輪が迷路のような仕組みを生み出しているのです。一方、西の丸や三の丸は地山の岩盤を削って平坦地を造り出したもので、池田輝政、本多忠政によって造られたものです。
連立式天守

姫路城大天守の外観は五重ですが、内部は7階(地上6階・地下1階)。白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)の白壁。軒唐破風や入母屋(いりもや)破風、出格子(でごうし)窓、石落(おと)しなどの意匠を見ることができます。

近世城郭建築の頂点
三つの小天守と大天守をつないだ
連立式天守

日本の近世城郭建築の技術は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、最高潮に達しました。関ヶ原の戦いの後、徳川家康の娘婿として姫路に入った池田輝政は、西国諸国や大坂城へにらみをきかせるため、城郭建築技術の粋を存分に発揮し、8年の歳月をかけて城郭建築の頂点ともいうべき城を造り上げます。
その特徴は連立式天守。初期の天守が独立した石垣の上に単独で造られたのに対し、姫路城の天守は三つの小天守(西小天守・乾(いぬい)小天守・東小天守)と大天守を渡櫓(わたりやぐら)でロの字につないだ連立式天守です。五重の大天守の各層が理想的な逓減率を保つことで均整の取れた美しいシルエットを生み、千鳥破風(ちどりはふ)や軒唐(のきから)破風の巧みな配置がリズムを生み出します。さらに、立体的に組み合わさった天守群は角度によって微妙に見え方が変わるのも特徴です。
雲

時代によって異なる形式の石積みが見られる

姫路城の石垣は、羽柴時代、池田時代、本多時代の三つの時期の石垣に分けられます。現存する姫路城の石垣では、秀吉が天正9(1581)年に三層の天守を築いた際の石垣が最も古く、自然の石をそのまま積んだ野面(のづら)積みと呼ばれる工法。菱の門の東側や上山里曲輪などで見られます。比較的石が小さく、石棺などの転用石が見られるのも特徴です。
池田輝政は天守台周辺の石垣を築きました。この時代の石垣は打込接(うちこみは)ぎ。積み石が接する部分を加工して組み合わせる積み方です。上にいくほど反り上がる扇の勾配もこのときに造られました。本多忠政の西の丸築造時も、池田時代と同じ打込接ぎの工法が使われましたが、武蔵野御殿跡などに、石の隙間を全くなくした切込(きりこみ)接ぎの石垣を見ることができます。
石垣
積み石を大きく加工して隙間を全くなくす「切込接ぎ」は、三の丸の武蔵野御殿跡で見ることができます(写真右)。また、姫路城の石垣には石臼や石灯籠などが再利用された転用石や石材の提供者や工事担当者が刻んだのではないかといわれる刻印が見られることも。写真(左)は大手門の北側にある「斧(よき)」の刻印。
櫓と門

個性豊かな27の櫓、21の門が現存する

姫路城の天守や備前丸に向かう縄張は、他に類を見ないほど複雑です。石垣や土塀で区切られた通路を進むと、曲輪の出入り口をはじめ数多くの門をくぐることになります。城の中で防御の重要な場所に建てられているのが櫓門です。門の両側に石垣があり、一層または、二層の櫓を渡したもので、鉄板張りの門や隠し狭間(さま)などが見られます。門の上に櫓がない高麗門や棟門、石垣の中に設けられた埋(うずみ)門などがあります。
櫓は門の上だけでなく、防御の要である曲輪の隅や城壁の上、城門の付近にもたくさん建てられています。その役割はさまざまで、武器や塩などをはじめとする物資を貯蔵する倉庫、有事の際に攻撃するための場所、行政事務を執り行う場所、女中たちの住居であったのではないかと考えられています。櫓の役割に応じて、物見としての機能や狭間などの攻撃のための機能があったり、畳敷きの部屋になっていたりとそれぞれに個性があります。
櫓と門1
にの門は複数の櫓を組み合わせた複雑な構成。低く狭い斜面の通路が内部で直角に折れ曲がり、防御が厳重です。櫓の中には階段があり2階建て。天守に向かってくる敵を狙える武者窓、石落しなどが整備されています。
櫓と門2 櫓と門3 櫓と門4

狭間や石落しなど
城郭建築ならではの工夫も楽しんで

敵兵が侵入したときのため、姫路城にはさまざまな防御の仕組みがあります。城内を歩くと土塀や櫓の壁に見られるのが狭間。矢を射るのに適した長方形の矢狭間や四角形、三角形、円形の鉄砲狭間があります。また、天守や櫓、門などに開けられた細長い穴は、石落し。城壁の直下まで攻め寄せた敵に、石を落としたり、やりで突いたり、鉄砲で撃ったりと、敵兵を攻撃するためのものでした。
大天守の入り口は、漆喰塗り土戸と鉄板張りの扉で二重に防御されています。天守内の窓は敵の侵入や矢玉を防ぐため、太い格子がはめられた格子窓。武具掛けや武者隠し(隠し小部屋)、石落しなどの設備に加え、貯蔵庫など籠城するための機能も備えられていました。
雲
櫓と門1
ぬの門の櫓部分は二層になっていて、一層は鉄格子窓、二層は出格子窓を備え、見た目には豪華ですが、上から敵を狙い撃つ防御の仕組みでもありました。また、二層になっているものの、それぞれに入り口があって、内部で上下には移動できないようになっています。
櫓と門2