柄が赤(朱)色で塗られた朱柄槍は武功の証しであり、1575年(天正3年)の諏訪原城攻めの戦功として酒井正親(まさちか)が「朱長柄」100本を徳川家康からいただいたといわれています。この朱柄槍を持てるのは、一説には大名家ではほかに2家に限られていたそうです。
馬の産地である南部藩(現・岩手県中部から青森県東部)や仙台藩(現・岩手県南部、宮城県全域など)から、良馬が江戸にひかれてきました。そこから徳川将軍家が最初に馬を品定めし、良馬を入手しました。その次に馬を選べたのが酒井家で、良馬を何頭も持っていたそうです。
数多い大名家の中でも限られた家だけが鷹をいただくことができ、とても栄誉なことでした。鷹は大名行列に遅れて姫路に届けられ、家臣たちの見守る中、姫路城の三の丸本城の玄関から虎の間を通り、鶴の間へと、大切なお客様を招くように迎えられました。
大名行列で率いる馬の鞍覆も大名の家格を示す重要な物の一つでした。特に、鞍覆を掛けられる家で虎皮が使えたのは徳川御三家や徳川将軍家一門である松平の各家や国持大名のみでしたが、酒井家は特別に虎皮の使用を認められていました。
駕籠の前や後に配置される挟箱を「先箱」「跡箱」といい、大名行列を象徴する持物の一つでした。箱の覆いや箱につける家紋などを美しく飾っていましたが、特に金紋は自由につけることができず、家格の高い家のみが徳川幕府より使用を許されていました。