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姫路城ゆかりの人物

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姫路お城まつり奉賛会事務局

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黒田官兵衛

御着城主・小寺政職の家老黒田職隆の嫡男として姫路城で生まれる。
稀代の軍師として羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の播磨制定や中国攻め、四国・九州征伐などを補佐し、その天下統一事業を支えたことで知られる。
関が原の合戦の後筑前52万3千石の藩主と成るがその基礎を築いたのが姫路にほかならず、まさに姫路から天下に翔けたといえる。

千姫

徳川家康の子・徳川秀忠と織田信長の姪・江との間に生まれた千姫。
わずか7歳の政略結婚で豊臣家に嫁ぐが、その12年後に夫・豊臣秀頼と大阪夏の陣で死別する。傷心の千姫が出会ったのが、のちの姫路城主・本田忠政の子・忠刻。当時としては異例の恋愛結婚を千姫は実現し、忠刻が没するまでの10年間姫路城で暮らす。
姫路城西の丸にある化粧櫓は、千姫の化粧料で建てられたためについた名前とされる。

本多忠刻

姫路藩主・本多忠政の長男として生まれる。祖父の本多忠勝が桑名藩に入部すると、忠政と共に桑名に移った。大坂夏の陣では忠政と共に出陣し、道明寺の戦いにも参加して敵の首級を挙げた。戦後、徳川家康の孫娘で豊臣秀頼の正室だった千姫と婚姻した。
この婚姻に関しては大坂落城後の7月に千姫が江戸に戻る途中、桑名の七里渡しの船中でたまたま忠刻を見初めたのがきっかけになったという逸話がある。また徳川家康が臨終の際に政略結婚の犠牲とした千姫のためを考えて忠刻やその生母に婚姻を命じたとする逸話もある

督姫

徳川家康の娘、池田輝政の御前として姫路へ
徳川家康の次女。天正11(1583)年、19歳で北条氏直に嫁した。まもなく北条氏は滅亡、氏直も病没したので、三河岡崎城に戻る。
文禄3(1594)年、豊臣秀吉の計らいで、当時三河吉田城主の池田輝政に再嫁した。  
輝政との夫婦仲は良く、5男2女に恵まれた。輝政の死後、姫路城で死去。

喜代姫

徳川将軍の娘であり、姫路藩主酒井忠学の正室   
11代将軍徳川家斉の二十五女。家斉は艶福家で、判明しているだけでも16名の妻・お妾がいた。子供は26男・27女。都合53名。その内の25女にあたる。  
5代姫路藩主・酒井忠学の正室で天保3(1832)年に姫路に輿入りした。その際に考案されたのが、現在姫路を代表する地元の銘菓・玉椿で姫路藩の御用菓子に用命された。