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《 姫路発 》お城からの手紙

2023 Spring vol.91

殿様はどこにいた? 御殿の場所を探そう

戦国時代から江戸時代にかけて大名たちがこぞって築いた天守。
しかし、大名は天守に住んでいたわけではありません。
御殿(ごてん)と呼ばれる建物に住み、政治を行っていたのです。
姫路城の殿様が寝泊まりしていた御殿はどこにあったのでしょうか。
播州姫路城図(中根忠之氏蔵)<
播州姫路城図(中根忠之氏蔵)

1 備前丸の御殿跡

2 向屋敷

向屋敷
庭園のある向屋敷は藩主の別邸。
数奇屋造りの建物が並んでいました。

東御屋敷跡公園

榊󠄀原家以降、藩主の住居として使われた東屋敷がありました。断片的な資料しか残っておらず、正確な姿はよく分かっていません。
東御屋敷跡公園

3 西の丸内

西の丸内
西の丸内には本多忠刻と千姫の上屋敷がありましたが、本多家以降は使われていなかったようです。

4 三の丸本城

本城

大広間である鶴ノ間は、城主と家臣の対面や儀式の場として使用されました。
奥(北側)は藩主の私生活の場でもありました。
本城1 本城2
CG制作:福井工業大学
FUT福井城郭研究所 多米淑人教授
障壁画制作:川面美術研究所
姫路城アーカイブでも見ることができます
http://himeji-jyokaku.jp

5 武蔵野御殿

武蔵野御殿
襖(ふすま)絵に武蔵野の風景をしのばせるススキの絵をあしらったからそう呼ばれたと伝えられています。
広報推進員 大山純奈 姫路市城郭研究室 工藤茂博さん
大山
殿様は天守に住んでいたわけではなかったんですね。
工藤
天守に住んでいたのは安土城の織田信長くらいです。姫路藩だけでなく、城主は御殿に住んでいたんですよ。
大山
御殿はどこにあったんですか。
工藤
池田輝政は、天守の南東に位置する備前丸に居館を建てて住んでいましたが、住居としても政治の場としても手狭だったのでしょう。本多家時代に三の丸に御殿が建てられたんです。
大山
備前丸にも三の丸にも建物は残っていませんね。
工藤
そうですね。備前丸の建物は、使われなくなって取り壊されたと考えられます。三の丸にはいくつか御殿があったのですが、明治以降、陸軍の兵営が三の丸にできる過程で撤去されました。
大山
どんな建物だったんでしょう。
工藤
まず、三の丸西側の高台に本城がありました。
大山
千姫ぼたん園があるところですね。
工藤
この御殿は藩政を執り行う役所に当たります。三の丸にあった御殿の中で最も広く、絢爛(けんらん)な障壁絵があったと考えられる鶴ノ間やとらの間、藩主が日中過ごした御居間などがありました。能舞台もあったんですよ。大分の中根家に伝わる「播州姫路城図」という資料があって、これは元禄12(1699)年~宝永元(1704)年ごろのものだと考えられているのですが、三の丸には三つの御殿があったことが分かります。
大山
それぞれどんな役割があったのでしょうか。
工藤
西側の御殿が本城。現在の三の丸広場にあるのが向屋敷(むこうやしき)です。藩主が公務を離れプライベートな時間を過ごした場所で、賓客をもてなす機能も併せ持っていました。大きな池泉式の庭園があったことも分かります。
大山
真ん中にも小さな建物がありますね。
工藤
これは武蔵野御殿です。本多忠政が嫡男の忠刻と妻の千姫のために建てた御殿です。実は、榊󠄀原家時代になると内曲輪の外に御殿が造られます。これが現在の東御屋敷跡公園にあったと伝えられる御殿です。あくまでもここは寝泊まりする場所で、執務は本城で行われました。
大山
御殿が残っていないのは残念ですね。
工藤
姫路城アーカイブで三の丸御居城表座敷をCGで復元した資料を見ることができますよ。ぜひ、ご覧ください。