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《 姫路発 》お城からの手紙

2023 Summer vol.92

徳川の姫君 千姫について知る

家紋
徳川家康の孫で、三代将軍・家光の姉でもある千姫。
7歳で豊臣秀頼(ひでより)に嫁し、大坂夏の陣で死別後、本多忠政の嫡男・忠刻(ただとき)と再婚し、姫路では一番幸せな時期を過ごしたといわれます。
しかし、その期間は9年余り。
忠刻が父に先立ち病没した後、江戸に戻った千姫のその後の人生はどのようなものだったのでしょう。
右手を肘掛けに、左手を膝の上に乗せ、立膝座りをしている千姫。髪をそり落とすのではなく、切り髪といって後ろ姿を短く切り取った姿で描かれています。
千姫姿絵
千姫姿絵 茨城県常総市 弘経寺蔵 常総市指定文化財
男山千姫天満宮 正面
男山千姫天満宮
1623(元和9)年、千姫は姫路城の西方にある男山に天満宮を建て、西の丸長局の廊下から朝夕遥拝したと伝えられています。千姫が奉納した羽子板が残されています。
千姫の休息所 化粧櫓
化粧櫓
千姫が男山天満宮を遥拝(ようはい)する際の休息所となったと伝わる化粧櫓
化粧櫓とつながる西の丸長局は、千姫に仕えた侍女たちの住まいだったそうです。
美しい着物を着ていたんですね。
小袖 打ち掛け 姫路城管理事務所蔵
広報推進員 一井ゆか 姫路文学館副館長兼学芸課長 甲斐史子さん
一井
千姫は9年余りしか姫路にいなかったのですね。
甲斐
千姫が姫路を離れたのが30歳のとき。70歳まで生きたので、その後の人生の方が長いんですね。
一井
江戸に戻ったんですよね。
甲斐
忠刻が亡くなると、その年のうちに江戸城に戻り、下総飯沼(現・茨城県常総市)の弘経寺(ぐぎょうじ)の了学上人を戒師として落飾(らくしょく)し、天樹院と号しました。
一井
落飾とはどういう意味ですか。
甲斐
身分の高い人が世俗から離れ、仏門に入ることです。
一井
仏門に入られて、その後はひっそり過ごされたのでしょうか。
甲斐
わずかな資料をひも解くと、愛する身の回りの人のために祈り、行動する姿が浮かび上がってきます。また、落飾後少なくとも二度の縁談話があったそうです。
一井
そうなんですね。
甲斐
7歳のときに政略結婚で大坂城に入り、秀頼亡き後、翌年には本多家に嫁したわけです。徳川家の姫君として自分の置かれた立場を認識し、その役割を果たそうとする聡明さと、戦国の世をくぐり抜けてきた強さを兼ね備えた女性だったのだろうと思います。
一井
江戸ではどんな暮らしだったのでしょうか。
甲斐
江戸城内の竹橋御殿で暮らしながら、弟で三代将軍の家光を支えるなど、徳川家の長老としての務めを担っていました。千姫の長女勝姫の嫁ぎ先の岡山藩が大洪水で被害を受けた際、多額のお金を用立てています。また、大坂城落城後、秀頼と側室の娘の助命を嘆願し、養女にして生涯庇護(ひご)しました。娘は駆け込み寺として知られる鎌倉の東慶寺で天秀尼と称し、尼として過ごしたのですが、東慶寺に宛てた千姫の侍女の書簡が残っていて、細やかな配慮に富んでいたことがうかがえます。
一井
優しい方だったんですね。千姫のことをもっと知りたくなりました。
甲斐
姫路文学館の「姫路城歴史ものがたり回廊」では、千姫姿絵の複製やドラマ仕立ての映像なども展示しています。ぜひ、遊びに来てくださいね。