ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

スマートフォン表示用の情報をスキップ

PC版

Multilingual

《 姫路発 》お城からの手紙

2023 Summer vol.92

真柴久吉公播州姫路城郭築之図
真柴久吉公播州姫路城郭築之図(兵庫県立歴史博物館蔵)

今の姫路城の基となったのは
戦国時代、
秀吉の三層の天守
お城

姫路城のある姫山は、『播磨国風土記』の十四丘伝説の一つ、蚕子(ひめこ)が落ちた日女道丘(ひめじおか)だといわれています。
その姫山に最初に縄張(なわばり)を定めたのは、南北朝時代の播磨国守護・赤松則村(円心)。その後、息子の貞範が本格的な城を築いたのが始まりといわれてきました。しかし、確かな資料で姫路城が表舞台に出るのは戦国時代になってから。1561(永禄4)年には姫山に城があったことが確認できることから、姫路を治めていた黒田重隆・職隆父子が主君小寺政職の許しを得て、御着城の出城として築いたのが最初だという説もあります。
1576(天正4)年、織田信長は安土城を築城し、天下統一をほぼ掌中に収めます。当時、播磨の国人たちが毛利につくか、織田につくかで揺れる中、先駆けて織田信長に謁見(えっけん)したのが黒田孝高(官兵衛)でした。
織田信長の家臣である羽柴秀吉の配下に入った官兵衛は、1580(天正8)年、中国攻めのため、秀吉が派遣されると、自分たちは国府山(こうやま)城へと移り、中国征伐の拠点として姫路城を譲渡します。このとき秀吉が建てたのは、中世の山城ではなく、近世の城郭の嚆矢(こうし)となる建築物。櫓(やぐら)や門、堀、石垣が整備され、三層の天守も築かれました。その後、池田輝政は秀吉の縄張を生かして現在の姫路城を築城。今も、北腰曲輪や上山里曲輪などで秀吉時代の石垣を見ることができます。
1600 備前丸から見た天守
池田輝政の居館があったといわれる備前丸から見た天守
主な
出来事
1601
池田輝政、城の大改築を始める
1617
本多忠政、城主に。
三の丸、西の丸その他を増築
1639
松平忠明、城主になる
1649
榊󠄀原忠次、城主になる
1667
松平直矩、城主に。
第二次松平氏時代がスタート
1682
本多忠国、城主に。
第二次本多氏時代がスタート

池田輝政が姫路城を築城
次々と藩主がかわった江戸時代初期

西国や大坂城へのけん制という任を担っていた池田輝政は、52万石の城造りを行いました。それが近世城郭の頂点ともいわれる連立式天守の姫路城です。池田家は輝政の死後、利隆、光政と続きますが、光政が幼少だったため因幡鳥取へ転封となります。
以後、姫路藩主は本多家をはじめ松平家、榊󠄀原家といった親藩や由緒ある譜代大名によって受け継がれます。さらに、西国の押さえの拠点であったことから、幼少の者が藩主を継ぐと転封が命じられ、上野前橋や越後村上などから藩主が入封するといったコースが出来上がりました。
1600年代は、一次本多、一次松平、一次榊󠄀原、二次松平、二次本多と5度の転封が行われ、14人が藩主を務めました。
また、大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぶと、幕府は所領の再編を行い、石高は52万石から25万石、そして15万石へと減少していきます。
1700
好古園付近「市之橋の屋敷」
落籍された花魁・高尾は現在の好古園付近「市之橋の屋敷」に住んだと記録に残されています
主な
出来事
1704
榊󠄀原政邦、城主に。
第二次榊󠄀原氏時代がスタート
1741
松平明矩、城主に。
第三次松平氏時代がスタート
1749
寛延の大一揆
1749
酒井忠恭、城主に。
酒井家が明治維新まで続く

度重なる藩主の交代
派手好みの藩主・榊󠄀原政岑も登場した
江戸時代中期

江戸時代中期は、元禄時代の経済・産業の発展が地方にも広がっていきましたが、一方で幕府の財政は悪化。8代将軍徳川吉宗による享保の改革をはじめ、盛んに財政改革が行われた時代です。
姫路では、1704(宝永元)年に、第二次榊󠄀原氏時代が始まりました。徳川四天王と称された名門榊󠄀原家ですが、後継に恵まれず、たびたび養子を迎えています。18代姫路藩主榊󠄀原政岑もその一人。わずか1千石の旗本家の次男から15万石の殿様になったためか、また多芸多才で三味線や浄瑠璃に堪能であったためか、花魁(おいらん)を身請けしたり、目立つ服装で江戸城大手門の警備をしたりと派手な所業を繰り返します。結果、倹約を奨励していた幕府の処罰の対象となり蟄居(ちっきょ)謹慎、榊󠄀原家は越後高田に転封されることになりました。
この後、松平明矩が入封すると、藩領に御用金賦課を頻発。また風水害に苦しむ農民の年貢延納の求めが藩に届かず、寛延の大一揆が発生しました。明矩は一揆の最中に死去。家督は幼少の長男が継いだため、酒井家が入封し、明治維新まで姫路藩主を務めました。
お城
1800
河合寸翁の銅像 姫路神社
姫路神社の境内には河合寸翁の銅像があります
主な
出来事
1808
河合道臣(寸翁)による藩財政の立て直しがスタート
1821
仁寿山黌開校

藩の負債70万両以上!
産業の発展が進んだ江戸時代後期

18世紀末から藩財政の悪化は続き、酒井家の3代当主忠道の時代には、現代の価値にして400億円以上にも上る負債を抱えていました。
このとき、財政の再建改革を命じられたのが河合道臣(寸翁)です。飢饉(ききん)や災害に備えて米や麦を蓄える固寧倉(こねいそう)を各地に設置し、領民の救済策を推進する一方、姫路木綿の江戸専売権を取得し、財政の立て直しを図りました。わずか27年で負債を完済したというから驚きです。現在も姫路の銘菓として知られる「玉椿」や「油菓子」も、寸翁の産業振興策の一つだと伝えられています。
また、寸翁は人材を育てることにも注力し、仁寿山に仁寿山黌(じんじゅさんこう)という私塾を開いたことでも知られています。
ちなみに、酒井家は文化人も多く、茶人としても知られる2代当主の酒井忠以(宗雅)は絵画や和歌、俳諧、作刀などに秀でていました。その弟、酒井抱一(忠因)は、江戸琳派の創設に尽力した人物です。
1850
姫路藩行列図
ペリー艦隊に備え、江戸・鉄砲洲へ進軍する姫路藩行列図
(姫路市立城郭研究室所蔵)
主な
出来事
1864
甲子の獄
1868
戊辰の獄
1869
版籍奉還。
姫路城は国有に
1931
国宝に指定される
1951
新国宝に指定される
1993
ユネスコの世界遺産に登録される

最後まで幕府に忠義を尽くした
幕末の姫路藩

1853(嘉永6)年のペリー来航に代表される異国船の度重なる来航は、国内に尊王派、佐幕派という二つの潮流を生み出しました。姫路藩は譜代の立場から、一貫して幕府方につきました。
しかし、藩内には尊王攘夷派に傾く者も多くいました。1862(文久2)年、薩摩藩の島津久光が幕府に改革嘆願書を提出するため上京する際、室津に立ち寄るという出来事がありました。このとき異常な興奮をもって多くの尊王攘夷派の志士が室津に集まったといわれ、家老である河合良翰や姫路藩の尊攘運動の先駆者・秋元安民にも大きな影響を与えました。
そのような状況に危機感を持った当時の藩主・忠績は、藩内の尊王攘夷派総勢70人を厳しく処罰。これが「甲子(かっし)の獄」です。しかし、1868(慶応4)年、鳥羽・伏見の戦いで幕府が敗れると、西国の諸藩は朝廷に恭順。姫路藩討伐令が発せられ、姫路城は開城に至ります。
最後の藩主である酒井忠邦は、新政府にくみすることを明確にするため、甲子の獄に関わった人物を次々と復権。藩内の佐幕派を糾弾し(戊辰の獄)、他藩に先駆けて版籍奉還を申し出るなど、姫路藩の汚名を返上し、領地を安堵(あんど)してもらうために力を注ぎました。