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《 姫路発 》お城からの手紙

2023 Autumn vol.93

教えて!
工藤さん
姫路城と姫路藩の豆知識

重要だった
お世継ぎのこと

広報推進員 大山純奈 姫路市城郭研究室 工藤茂博さん
大山
江戸時代の大名家では、男子が家督を相続したのですよね。男子ができなかったら、どうなるんでしょうか。
工藤
跡継ぎがいないと、家の存続が窮地に陥るわけです。その一例が「末期養子」の禁でした。幕府に世継ぎの届を出さないまま当主が死亡した場合、慌てて世継ぎを届け出ることは認められていなかったんです。
大山
昔は子だくさんのイメージがありますが、それでも男子を産み育てるのは難しかったのでしょうか。
工藤
姫路藩主を務めた酒井雅楽頭家(うたのかみけ)がまだ前橋藩主だった頃、当主の忠挙(ただたか)は5男7女をもうけましたが、無事に成人したのは1男3女のみ。その唯一の男子が忠相(ただみ)でした。忠相は4男2女をもうけましたが、親愛(ちかよし)だけが成人、他の5人はすべて7歳までに亡くなりました。
大山
乳幼児の死亡率が高かったんですね。
工藤
男子血統による家督相続を維持するのであれば、当主は正室の他に複数の側室を抱えて一人でも多くの子を産んでもらわなければなりませんでした。また、女性にも妊娠適齢期があるので、その間に妊娠機会を増やすことも大事です。生まれた乳飲み子を乳母に養育させるのはそのためでした。
大山
なるほど!乳母にはそういう役割があったんですね。
工藤
当主側にも問題はありました。忠挙から家督を継いだ翌年、忠相は42歳で病死します。唯一成人した男子、親愛も家督は継いだものの、病弱で子宝には恵まれませんでした。それにより酒井家に末期養子の壁が立ちふさがったんです。
大山
どうやって切り抜けたのですか。
工藤
すでに隠居していたにもかかわらず、忠挙は家を守るため養子探しに乗り出します。候補となったのは敦賀藩主・酒井忠菊(ただきく)の子の忠丘(ただおか)。しかし、忠丘は長男であったため、断られる可能性がありました。そこで忠挙は敦賀藩の「本藩」にあたる小浜藩主の酒井忠音(ただおと)から「支藩」を説得してもらおうと考えました。
大山
養子をもらうのも一筋縄ではいかないんですね。
工藤
忠音は「『そちら(敦賀藩)に雅楽頭家を継ぐ気がないのなら、私(忠音)が養子になって宗家(雅楽頭家)を継ぐから、小浜の本藩はあなた(忠菊)が私に代わって継いでくれ』と言えば、忠菊も納得するだろう」と言ったそうです。果たして敦賀藩は忠丘養子の件を承諾しました。
大山
どういうことでしょう。
工藤
「支藩」には「本藩」の藩主を助け、その血統を保って家督相続を円滑化するという役目があります。その「本藩」を凌(しの)ぐ「宗家」の当主を輩出できることには大きな意味があったのでしょう。結局、忠丘は親本(ちかもと)と改名して、親愛の養子となりました。ところが……。
大山
まだ、何かあるんですか!
工藤
親本も世継ぎに恵まれることなく27歳で病死してしまうんです。親本の発病から死亡まで約1カ月の間に、親本の実弟が養子となり、「宗家」の雅楽頭家を継ぐことになりました。「末期養子」の禁に抵触するような時間経過ですが、この頃にはそれもかなり緩和されていたんでしょうね。親本の後を継いだ忠恭(ただずみ)は、姫路藩酒井家の初代当主となり、明治維新まで同家が姫路藩を治めることになったんですよ。
姫路城