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《 姫路発 》お城からの手紙

2023 Winter vol.94

教えて!
工藤さん
姫路城と姫路藩の豆知識

榊󠄀原家の転封の裏に
酒井家の画策あり

広報推進員 一井ゆか 姫路市城郭研究室 工藤茂博さん
一井
お世継ぎ問題に悩まされた酒井家が、その後姫路藩に転封(てんぽう)になったのには、どんな経緯があったのですか。
工藤
酒井忠恭(ただずみ)は前橋藩主となると、幕閣の一人として頭角を現すようになります。まずは老中への昇進コースに当たる大坂城代となるんですね。
一井
大坂城代とはどんな役職ですか。
工藤
西国諸藩の動向を監視し、有事には軍事指揮権を行使する役目がありました。
一井
じゃあ、姫路藩も?
工藤
そうですね。城代に監視されていました。当時の姫路藩主は榊󠄀原政岑(まさみね)です。
一井
「ゆかた祭り」を始めたとされる殿様ですね! 江戸で有名な遊女・高尾太夫を3000両で落籍し、姫路に連れ帰ったという話も聞いたことがあります。
工藤
政岑は派手さや遊興を大変好んだ大名でした。大名自らが遊興等で積極的にお金を使って経済活動を盛んにさせようという政策を推進したのです。しかし、こうした積極財政は、将軍・徳川吉宗が進める緊縮財政とは相反するものであったため、幕府に目を付けられました。
一井
西国の要衝である姫路藩主が反体制的と見なされたわけですね。
工藤
ええ、そうした時期に大坂城代となった酒井忠恭は、親戚筋ということもあって最初は榊󠄀原家をいさめましたが、政岑の行状が改まることはありませんでした。
一井
忠恭はどうしたんですか?
工藤
忠恭は姫路に隠密を派遣したんです。商人や旅人の格好をして姫路城下に入ったといいますから、まさにスパイを潜入させての“敵情探索”です。もし、露見すれば榊󠄀原・酒井は戦になってもおかしくありません。
一井
何が分かったのでしょうか。
工藤
記録がなく、詳しいことは分かっていませんが、寛保元(1741)年9月、榊󠄀原家の江戸留守居役が老中に呼び出され、奉書を渡されます。奉書は写しが作られ、二つのルートで姫路へ届けられました。
一井
アクシデントで遅れたり、滞ったりしないよう二つ用意したということですね。事の重大さを感じます。
工藤
江戸を16日に出発した使者の一人は、20日にはすでに姫路に到着しており、いかに緊急を要するものであったかが分かります。
一井
何が書かれていたのですか。
工藤
参府命令です。政岑は10月12日に江戸に到着。老中が居並ぶ中で、不行跡を理由に隠居が正式に申し渡され、息子の小平太への家督相続は認められたものの、姫路から転封するよう命じられました。
一井
大変な事件だったのですね。
工藤
榊󠄀原家の転封先が越後高田に決まったとき、藩主の小平太は家中に高田での振る舞いや作法、引っ越しでの注意点を条文にして明示します。しかし、幼い小平太が自らその条文作成を主導できるわけもありません。指図したのが、忠恭だったのです。
一井
姫路城下の隠密探索、高田転封の差配に忠恭が関わっていたのですね。
工藤
政岑が姫路を去ってから8年後、榊原家の次に藩主となった松平家が嗣子幼少のため姫路から転封させられる隙をうまく捉え、忠恭は姫路藩主に就きました。前橋での財政難を打開したい忠恭にとって、豊かな姫路への転封は念願でした。姫路探索で得た情報も転封の動機付けにはなったのでしょう。
一井
以後、約100年間、酒井家が明治維新まで姫路藩主を務めるわけですね。
工藤
ですが、今も続く「ゆかた祭り」の主人公とされるのは酒井家の歴代藩主ではなく、榊原政岑。姫路城下の町人にとって、人間味のある政岑の方が親しみやすかったのかもしれません。
姫路城