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《 姫路発 》お城からの手紙

2024 Spring vol.95

教えて!
工藤さん
姫路城と姫路藩の豆知識

家臣の履歴から
分かること

広報推進員 大山純奈 姫路市城郭研究室 工藤茂博さん
姫路侍屋敷図 姫路侍屋敷図 姫路市立城郭研究室蔵
大山
最近、姫路城下町跡でも大きなマンション等の建設が目立ちますね。建設の際、調査などは行われるのでしょうか。
工藤
もちろん予定地は事前に発掘調査する必要がありますし、もしその場所が侍屋敷跡だったら、発掘調査と並行して、あるいは事前に、その予定地の履歴調査が行われます。まず、城下町絵図から屋敷の亭主名と屋敷割を調べます。次に、その亭主の家格や経歴を調べます。家格や石高によって、持てる屋敷の規模が決まっていたので、それが分かればその場所にあった屋敷や門などの規模が予想できるのです。
大山
なるほど。絵図を見れば住んでいた人が分かるのですね。
工藤
住んでいた人も分かるのですが、それ以外にも分かることがあるんですよ。例えば家格とは不釣り合いな建物遺構が出土したとき、そこにはその家中や亭主に何らかの画期的出来事があったことが想定されるんです。そこで大事なのが、藩主が作成した家臣の家格や履歴を記録した文書です。姫路藩酒井家では「安永さむらい帳」「安政年中家臣録」「天保家臣録」といった冊子があります。
大山
すごい!人から歴史をたどることができるんですね。
工藤
本来すべての家臣の履歴が書き継がれてきたはずなのですが、残念なことに、姫路藩関係で残っているのは18世紀後半と19世紀末期のものに限られており、それもカ行の姓の家臣が載っている冊子が欠落するなど、完全なものではありません。それでも残っている物からは、その時期の家臣の個々の経歴は分かりますし、そこからこれまで不明だったことが明らかになることもあります。
大山
具体的に教えてください。
工藤
例えば、「安永さむらい帳」には野村冨大夫という人について、6カ条ほどの短い履歴が記録されています。彼の役職は「御普請方手付」と注記されていますので、正規の家臣というよりは普請、つまり土木工事に関係して「御普請方」が臨時的に採用した下働きとみられます。彼の履歴をみると、享和3(1803)年4月に飾磨門から外京口門までの範囲で外堀の浚渫(しゅんせつ)工事に従事。さらに、文化8(1811)年12月には中堀に面する鵰(くまたか)門の石垣工事に従事し、「御言葉」の褒美をもらっていると書かれています。
大山
そこから、新たに分かることがあるのですか。
工藤
はい。江戸時代の城郭では石垣修理には事前に幕府の許可が必要でした。幕府への修理申請の写しとその許可書が記録として藩に残りますから、城郭石垣の修理履歴が追えるのです。しかし、文化8年に鵰門の石垣修理をした記録は残っておらず、野村の履歴からこの年にも鵰門石垣が修理されたことが分かったのです。
大山
なるほど。ちなみに「御言葉」の褒美とはいったい何だったんでしょう。
工藤
藩主自らが工事関係者に掛けたねぎらいの言葉だと考えられます。つまり、藩主が鵰門の工事現場に足を運んだことも想定できるわけです。
大山
面白いですね!
工藤
不完全な残存状態とはいえ、家臣の履歴が文書として残っているのは貴重です。「ファミリーヒストリ―」などの影響もあってか、こうした記録にも関心が示されるようになってきました。そこから未知の情報を発掘していけば、姫路城の見え方も少しずつ変わっていくことでしょう。
姫路城