数字で見る姫路城
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後、姫路に入った徳川家康の女婿・池田輝政は、翌年から、52万石の城主として姫路城の築城に着手。羽柴(豊臣)秀吉が築いた石垣の一部はそのままに、大天守と三つの小天守を渡櫓(わたりやぐら)で結ぶ新たな連立式天守を8年かけて完成させました。この17世紀初頭の城郭建築の最高峰ともいうべき姫路城の価値は世界でも認められ、平成5(1993)年にわが国初の世界遺産となりました。姫路城が築城されてから415年、世界遺産となってから30年余り。改めて姫路城の姿をデータで見ていきましょう。
世界遺産条約締結国
カ国
世界遺産数
件
文化遺産
件
自然遺産
件
複合遺産
件
世界遺産に
まつわる数字
(2024年1月現在)
まつわる数字
(2024年1月現在)
昭和47(1972)年にパリ・ユネスコ総会で
世界遺産条約が採択されてから52年。
日本は平成4(1992)年に締結するなど
その締結国や遺産数は
年々増加しています。
世界遺産条約が採択されてから52年。
日本は平成4(1992)年に締結するなど
その締結国や遺産数は
年々増加しています。
世界遺産国別登録ランキング
1 位 イタリア・・・・59件
2 位 中国・・・・・・57件
3 位 ドイツ・・・・・52件
3 位 フランス・・・・52件
5 位 スペイン・・・・50件
6 位 インド・・・・・42件
7 位 メキシコ・・・・35件
8 位 イギリス・・・・33件
9 位 ロシア・・・・・31件
10位イ ラン・・・・・27件
11位 日本・・・・・・25件
2 位 中国・・・・・・57件
3 位 ドイツ・・・・・52件
3 位 フランス・・・・52件
5 位 スペイン・・・・50件
6 位 インド・・・・・42件
7 位 メキシコ・・・・35件
8 位 イギリス・・・・33件
9 位 ロシア・・・・・31件
10位
11位 日本・・・・・・25件
日本のランキング
位
文化遺産20件、自然遺産5件の計25件が登録。
最後に登録されたのは、
2021年「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及(およ)び西表島」 「北海道・北東北の縄文遺跡群」。
最後に登録されたのは、
2021年「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及(およ)び西表島」 「北海道・北東北の縄文遺跡群」。
姫路城入城者に
まつわる数字
まつわる数字
コロナ禍により減少した入城者数も
次第に回復。
令和5(2023)年度は
11月に100万人を
突破しました。
次第に回復。
令和5(2023)年度は
11月に100万人を
突破しました。
過去最高入城者数[年間]
万人
平成27(2015)年度、過去最多の入城者数を記録。
これは、前年に平成の大修理を終えたグランドオープン後の数字です。
塗りたての真っ白な漆喰(しっくい)の美しい姫路城を見ようと、全世界からたくさんの人が訪れました。
これは、前年に平成の大修理を終えたグランドオープン後の数字です。
塗りたての真っ白な漆喰(しっくい)の美しい姫路城を見ようと、全世界からたくさんの人が訪れました。
外国人最高入城者数[年間]
万人
令和元(2019)年度の入城者数。
日本全国で訪日外国人数が過去最多を記録した年です。
その後、新型コロナウイルス感染症の流行により激減しましたが、令和4(2022)年度から復調。
令和5(2023)年度は初めて40万人を突破しました。
日本全国で訪日外国人数が過去最多を記録した年です。
その後、新型コロナウイルス感染症の流行により激減しましたが、令和4(2022)年度から復調。
令和5(2023)年度は初めて40万人を突破しました。
姫路城に
まつわる数字
まつわる数字
大きさ、重さなどの基本的なことから
トイレの数や城下町の人口まで
姫路城をデータで見ると
新たな発見がありました。
トイレの数や城下町の人口まで
姫路城をデータで見ると
新たな発見がありました。
現存天守
大天守の高さ
海抜m
内訳は姫山の高さ
m
天守台石垣高さ
m
大天守高さ
m
大天守の重さ
t(推定)
内訳は壁土が約
t、
瓦葺(ぶ)き土と目地漆喰(しっくい)が約
t、
木材が約
t、
金属が約
t。
城内最高石垣
m
池田時代に築かれた帯の櫓(やぐら)を支える石垣が一番高くなっています。
櫓の内部には、湯気抜きの簀子(すのこ)などがあり、茶の席に使われたのではないかともいわれています。
櫓(やぐら)の数
イ・ロ・ハなど文字付きの櫓、折廻(おれまわ)り櫓、井戸櫓(井郭櫓)、帯の櫓、帯郭櫓、化粧櫓など。
すべて重要文化財(※)です。
※国宝の東・西・乾(いぬい)小天守、四つの渡櫓を除く
門の数
堅牢(けんろう)かつ大規模で城の重要な所に築かれた櫓門が八つ、慶長期の名残りのある高麗門が六つ、簡素な造りの棟門が三つ、石垣中に設けられた埋(うずみ)門が四つあります。内曲輪内のいろは付きの門のうち、「との三門」「をの門」は消失しています。
狭間(さま)の数
個
内訳は矢狭間
、
鉄砲狭間
。
※「わたし達の姫路城」黒田純、中野みゆき、森谷瑛子共著による
井戸の数
カ所
文化3(1806)年の記録では33あったという井戸。今、確認できるのは13カ所だけ。観光ルートで有名なのは上山里曲輪(くるわ)にある「お菊井戸」ですが、ロの渡櫓や帯曲輪、井戸櫓(井郭櫓)などにも井戸があります。
内曲輪にあった厠(かわや)<トイレ>の数
カ所
厠の数は時代により変わりますが、第2次本多時代絵図(1700年ごろ)によると、本城に19、向屋敷に9、三の丸(御殿を除く)に10、作事曲輪に5、搦手(からめて)~勢隠曲輪に6、西の丸に3、天守曲輪~二の丸に17(天守地階を含む)の厠があったそう。ちなみに大天守の地下1階にもありますが、一度も使われた形跡はないそうです。
大天守柱の数
本
東・西大柱を除く大天守の柱(本柱・間柱)の総数はなんと627。使われた木の種類はグラフの通りで、モミやツガが多く使われていたことが分かります。
江戸時代の姫路城の保存工事
軸部の補強修理回
屋根・軒廻(まわ)り修理回
江戸時代から明治にかけて挿入された補強柱の数は205本(筋交柱を除く)に及んでいます。
歴代藩主
人
初めは外様の池田家が治め、その後譜代大名である本多家、松平家(奥平)、松平家(越前)、榊原家、酒井家が転々としました。
城下町の広さ
ha
平方キロメートル
姫路城の城下町の広さはすなわち外曲輪の広さ。内曲輪は城と居館、中曲輪に侍屋敷、外堀が城と城下町を囲む総構えの造りでした。
姫路中期の城下街の人口(推定)
約人
文政8(1825)年の記録によると家中(侍)は1,288人(江戸詰めを除く)、また宝暦(1751〜1764)年間の町人の数は21,310人という記録が残っています。