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《 姫路発 》お城からの手紙

2024 Summer vol.96

姫路城

路城

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後、姫路に入った徳川家康の女婿・池田輝政は、翌年から、52万石の城主として姫路城の築城に着手。羽柴(豊臣)秀吉が築いた石垣の一部はそのままに、大天守と三つの小天守を渡櫓(わたりやぐら)で結ぶ新たな連立式天守を8年かけて完成させました。この17世紀初頭の城郭建築の最高峰ともいうべき姫路城の価値は世界でも認められ、平成5(1993)年にわが国初の世界遺産となりました。姫路城が築城されてから415年、世界遺産となってから30年余り。改めて姫路城の姿をデータで見ていきましょう。
世界遺産条約締結国
195カ国
世界遺産数
1,199
文化遺産
933
自然遺産
227
複合遺産
39
世界遺産
まつわる数字
(2024年1月現在)
昭和47(1972)年にパリ・ユネスコ総会で
世界遺産条約が採択されてから52年。
日本は平成4(1992)年に締結するなど
その締結国や遺産数は
年々増加しています。
世界遺産国別登録ランキング
1 位 59件
2 位 57件
3 位 52件
3 位 52件
5 位 50件
6 位 42件
7 位 35件
8 位 33件
9 位 31件
10位 27件
11位 25件
日本のランキング
11
文化遺産20件、自然遺産5件の計25件が登録。
最後に登録されたのは、
2021年「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及(およ)び西表島」 「北海道・北東北の縄文遺跡群」。
姫路城入城者
まつわる数字
コロナ禍により減少した入城者数も
次第に回復。
令和5(2023)年度は
11月に100万人を
突破しました。
過去最高入城者数[年間]
2867,051
平成27(2015)年度、過去最多の入城者数を記録。
これは、前年に平成の大修理を終えたグランドオープン後の数字です。
塗りたての真っ白な漆喰(しっくい)の美しい姫路城を見ようと、全世界からたくさんの人が訪れました。
外国人最高入城者数[年間]
395,003
令和元(2019)年度の入城者数。
日本全国で訪日外国人数が過去最多を記録した年です。
その後、新型コロナウイルス感染症の流行により激減しましたが、令和4(2022)年度から復調。
令和5(2023)年度は初めて40万人を突破しました。
総入場者数
姫路城
まつわる数字
大きさ、重さなどの基本的なことから
トイレの数や城下町の人口まで
姫路城をデータで見ると
新たな発見がありました。
姫路城2
現存天守
1/12
日本にはかつて170もの天守があったといわれますが、現在まで往時の姿が残っているのは弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城の12城だけです。
大天守の高さ
海抜91.9m
内訳は姫山の高さ
45.6
m
天守台石垣高さ
14.8
m
大天守高さ
31.5
m
姫路城の大天守は、現存天守12城の中で一番高く、奈良の法隆寺五重塔とほぼ同じ高さです。外観は5層、内部は地下を含めて7階建てになっています。
大天守の重さ
t(推定)
内訳は壁土が約
2000
t、
瓦葺(ぶ)き土と目地漆喰(しっくい)が約
3,200
t、
木材が約
450
t、 金属が約
50
t。
80,504枚(昭和の大修理時)の瓦が半分以上の重さを占めています。
城内最高石垣
23.32m
池田時代に築かれた帯の櫓(やぐら)を支える石垣が一番高くなっています。 櫓の内部には、湯気抜きの簀子(すのこ)などがあり、茶の席に使われたのではないかともいわれています。
櫓(やぐら)の数
27
イ・ロ・ハなど文字付きの櫓、折廻(おれまわ)り櫓、井戸櫓(井郭櫓)、帯の櫓、帯郭櫓、化粧櫓など。 すべて重要文化財(※)です。
※国宝の東・西・乾(いぬい)小天守、四つの渡櫓を除く
1856年前後に記された『村翁夜話集』によると、姫路城にはかつて43の櫓と84の門があったと伝えられています。
門の数
21
堅牢(けんろう)かつ大規模で城の重要な所に築かれた櫓門が八つ、慶長期の名残りのある高麗門が六つ、簡素な造りの棟門が三つ、石垣中に設けられた埋(うずみ)門が四つあります。内曲輪内のいろは付きの門のうち、「との三門」「をの門」は消失しています。
門の開口部の幅は天守に近づくほど小さくなっていきます。いの門やろの門では1丈5寸(約4.6メートル)ですが、はの門になると7尺5寸(約2.3メートル)、にの門は6尺5寸(約2メートル)、ほの門は4尺8寸(約1.5メートル)に!
狭間(さま)の数
997
内訳は矢狭間
153
鉄砲狭間
844
※「わたし達の姫路城」黒田純、中野みゆき、森谷瑛子共著による
狭間
天守や櫓、土塀の壁面などには矢や鉄砲を放つための穴「狭間」がたくさんあります。長方形、正方形、三角形、円形があり、縦長の長方形が矢狭間。その他が鉄砲狭間です。土塀における狭間の配置は、弓隊と鉄砲隊の兵力を反映しているといわれ、姫路城では矢狭間1に対して鉄砲狭間が2の割合で配置されています。
井戸の数
13カ所
井戸 文化3(1806)年の記録では33あったという井戸。今、確認できるのは13カ所だけ。観光ルートで有名なのは上山里曲輪(くるわ)にある「お菊井戸」ですが、ロの渡櫓や帯曲輪、井戸櫓(井郭櫓)などにも井戸があります。
実は、城内の井戸には空井戸があります。近年の調査によると、豪雨などにより石垣が崩れないよう、水を井戸に逃がすような仕組みがあることが分かってきました。
内曲輪にあった厠(かわや)<トイレ>の数
69カ所
厠 厠の数は時代により変わりますが、第2次本多時代絵図(1700年ごろ)によると、本城に19、向屋敷に9、三の丸(御殿を除く)に10、作事曲輪に5、搦手(からめて)~勢隠曲輪に6、西の丸に3、天守曲輪~二の丸に17(天守地階を含む)の厠があったそう。ちなみに大天守の地下1階にもありますが、一度も使われた形跡はないそうです。
大天守柱の数
627
東・西大柱を除く大天守の柱(本柱・間柱)の総数はなんと627。使われた木の種類はグラフの通りで、モミやツガが多く使われていたことが分かります。
木の種類グラフ
江戸時代の姫路城の保存工事
軸部の補強修理19
屋根・軒廻(まわ)り修理17
江戸時代から明治にかけて挿入された補強柱の数は205本(筋交柱を除く)に及んでいます。
歴代藩主
31
初めは外様の池田家が治め、その後譜代大名である本多家、松平家(奥平)、松平家(越前)、榊原家、酒井家が転々としました。
城下町の広さ
233ha
2.33平方キロメートル
姫路城の城下町の広さはすなわち外曲輪の広さ。内曲輪は城と居館、中曲輪に侍屋敷、外堀が城と城下町を囲む総構えの造りでした。
姫路中期の城下街の人口(推定)
24,000
文政8(1825)年の記録によると家中(侍)は1,288人(江戸詰めを除く)、また宝暦(1751〜1764)年間の町人の数は21,310人という記録が残っています。
姫路城3