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《 姫路発 》お城からの手紙

2024 Summer vol.96

教えて!
工藤さん
姫路城と姫路藩の豆知識

江戸と姫路を行き来した
奥女中のひそかな楽しみ

広報推進員 一井ゆか 姫路市城郭研究室 工藤茂博さん
工藤
姫路城の東屋敷内に「御休所」という場所がありました。奥女中が集住する場所です。
一井
奥女中とはどんな存在なのですか。
工藤
殿様の私生活を支える女性たちです。特に「御休所」にいる奥女中は、江戸から殿様の帰国行列に従って来た者たちでした。すなわち1年足らずの間姫路に滞在し、殿様が参勤で江戸に戻れば、彼女たちも姫路を去っていったんです。
一井
1年! ツーリストのような存在だったのですね。
工藤
そうです。彼女たちが仕事の合間に時間を見つけては、その土地の名所へ物見遊山に行った記録が残っているんですよ。
一井
当時の観光地ってどこだったんでしょう。
工藤
八家地蔵が人気だったみたいです。たとえば文政7(1824)年3月28日には、女中全員で出掛けています。
一井
日付まで分かっているんですね!
工藤
名前も分かっていますよ。江戸から来た苫編、つや、狩野、久米、房、美佐子、関屋の女中7人、ゑんとふじの世話役の下女が2人。その他に姫路採用のてつとまつの下女2人がいたようです。
一井
女性たちだけで出掛けたのですか?
工藤
まさか! 警備の足軽や駕籠舁(かごか)き、物持など43人を加えた供揃(ぞろい)で参詣しました。
一井
大名行列のような感じだったのですね。駕籠に乗って行ったんでしょうか。
工藤
女中や同行の医者、目付は駕籠に乗りますが、その他は当然徒歩。下女には1台の駕籠しか用意されていないので、交代で乗ったのでしょう。
一井
訪れたのは八家だけですか。
工藤
お決まりのコースがあって、木場の恵美酒宮へは船で立ち寄り、他にも妻鹿の神宮寺、多田宗立という人の家に出向いたようです。
一井
なぜ多田家を訪れたのでしょう。
工藤
タカ狩りや遠馬などで殿様が遠出をする際、庄屋宅で休憩や昼食を取り、時には宿泊することもありました。多田家は妻鹿村の庄屋を務めたこともある名家だったから……とも考えられますが、宗立は茶人として知られていたので、このとき女中たちはお手前を期待していたのでしょうね。実はこの参詣があった3月末というのは、参勤の直前。4月15日には姫路を出発しなければならなかったのです。
一井
なるほど! 最後に遊んでおこうというわけですね。
工藤
道中の安全を祈願する意味もあったかもしれませんね。雛(ひな)飾りが片付けられるとすぐに私物の片付けや御休所の破損確認などが行われ、急いで出発の準備をしなければなりませんでした。私物は別送しなければならなかったようで、つやの私物は60キロもあったそうですよ。また、女中たちは目付ら立ち合いの下、役所で「女中髪改」を受けなければなりませんでした。単なる調髪ではなく、道中分相応の髪型にしておくためだったのでしょう。健康チェックも兼ねていたかもしれません。
一井
健康でないと連れて行ってもらえなかったということですか。
工藤
はっきりとは分かりませんが、文政4(1821)年4月の例では妊娠中の女中・操のため、駕籠を大きめの物にすると決め、3両3分を出費しています。
一井
お殿様との子を妊娠していたのですね。
工藤
ちなみに姫路採用の下女てつとまつは出発前日に解雇されています。江戸へ戻る女中たちは、殿様の行列が姫路城を出発するのを大手門の太鼓櫓で見送り、その数時間後、殿様の行列を追って出発。江戸まで約20日間の長い旅に出ました。家中倹約のため、彼女たちに渡される「江戸帰り金」は通常の1割カットで、辛抱の20日間でもありました。
姫路城