姫路城の歴史
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姫路城の歴史をご紹介します。
年表
西暦 | 和暦 | できごと |
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1333年 | 元弘3年 | 赤松則村(円心)、護良親王の命により挙兵。京に兵をすすめる途中、姫山に砦を築く。 |
1346年 | 正平元年 | 赤松貞範、姫山に本格的な城を築く。 |
1441年 | 嘉吉元年 | 嘉吉の乱。赤松満祐父子、六代将軍足利義教を謀殺し、自害。山名持豊、姫路城を治める。 |
1467年 | 応仁元年 | 応仁の乱。赤松政則、姫路城を陥落し、領国を回復。本丸、鶴見丸を築く。後に一族の小寺氏、その重臣の黒田氏が城をあずかる。 |
1580年 | 天正8年 | 羽柴秀吉の中国攻略のため、黒田孝高、城を秀吉に献上。秀吉、3層の天守閣を築く。翌年完成。 |
1585年 | 天正13年 | 木下家定、姫路城主となり16年間治める。 |
1600年 | 慶長5年 | 関が原の戦の後、池田輝政が姫路城主に。 |
1601年 | 慶長6年 | 池田輝政、城の大改築を始める。1609年(慶長14年)に5重7階の連立式天守完成。 |
1617年 | 元和3年 | 池田光政、鳥取城へ移る。本多忠政、姫路城主に。三の丸、西の丸、そのほかを増築。 |
1639年 | 寛永16年 | 松平忠明、姫路城主となる。 |
1649年 | 慶安2年 | 榊原忠次、姫路城主に。その後、松平、本多、榊原各氏が城主に。 |
1749年 | 寛延2年 | 酒井忠恭、前橋から姫路へ。明治維新まで酒井氏が城を治める。 |
1869年 | 明治2年 | 酒井忠邦、版籍を奉還し、姫路城は国有に。 |
1931年 | 昭和6年 | 姫路城天守閣、国宝に指定される。 |
1951年 | 昭和26年 | 新国宝に指定される。 |
1956年 | 昭和31年 | 天守閣、国費により8か年計画で解体修理着工(昭和の大修理)。 |
1964年 | 昭和39年 | 天守閣群の全工事完了。 |
1993年 | 平成5年 | ユネスコの世界文化遺産に登録される。 |
2009年 | 平成21年 | 大天守保存修理工事着工(平成の修理)。 |
2015年 | 平成27年 | 姫路城グランドオープン。 |
2023年 | 令和5年 | 世界遺産登録30周年。 |
歴代の姫路城主
姫山の地に初めて砦が築かれたのは1333年、赤松氏の時代といわれています。以来、13氏・48代が城主を務め、戦塵にまみれることなく今日にいたっています。
赤松氏の後、西国統治の重要拠点として羽柴秀吉、池田輝政、本多忠政が城に夢を託して拡張、いま見られる全容が整ったのは戦乱の世が落着いた1617年のことです。
城主 | 城主になった年(西暦) | 城主になった年(和暦) |
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池田輝政 | 1600年 | 慶長5年 |
池田利隆 | 1613年 | 慶長18年 |
池田光政 | 1616年 | 元和2年 |
本多忠政 | 1617年 | 元和3年 |
本多政朝 | 1631年 | 寛永8年 |
本多政勝 | 1638年 | 寛永15年 |
松平忠明 | 1639年 | 寛永16年 |
松平忠弘 | 1644年 | 正保1年 |
松平直基 | 1648年 | 慶安1年 |
松平直矩 | 1648年 | 慶安1年 |
榊原忠次 | 1649年 | 慶安2年 |
榊原政房 | 1665年 | 寛文5年 |
松平直矩 | 1667年 | 寛文7年 |
本多忠国 | 1682年 | 天和2年 |
本多忠孝 | 1704年 | 宝永1年 |
榊原政邦 | 1704年 | 宝永1年 |
榊原政祐 | 1726年 | 享保11年 |
榊原政岑 | 1732年 | 享保17年 |
榊原政永 | 1741年 | 寛保1年 |
松平明矩 | 1741年 | 寛保1年 |
松平朝矩 | 1748年 | 寛延1年 |
酒井忠恭 | 1749年 | 寛延2年 |
酒井忠以 | 1772年 | 安永1年 |
酒井忠道 | 1790年 | 寛政2年 |
酒井忠実 | 1814年 | 文化11年 |
酒井忠学 | 1835年 | 天保6年 |
酒井忠宝 | 1844年 | 弘化1年 |
酒井忠顕 | 1853年 | 嘉永6年 |
酒井忠績 | 1860年 | 万延1年 |
酒井忠惇 | 1867年 | 慶応3年 |
酒井忠邦 | 1868年 | 明治1年 |
姫路城の伝説
姫路城に伝わる伝説をご紹介します。
「姫路」の名の由来
姫山全景(北側から)
「姫路」の名は、播磨国風土記に出てくる「日女道丘」からきています。神代の昔、大汝命は、その子火明命があまりに乱暴者なので、海へ出た際、捨ててしまおうと島に置き去りにして船出。ところが、船が出てゆくのに気づいた火明命は大変怒り、風波を起こして船を難破させてしまいました。
その時、船や積み荷などが流れ着いた場所に「船丘」「犬丘」「筥丘」「琴丘」など14丘の名が付けられましたが、その一つ、蚕子の流れ着いたところが「日女道丘」で、現在姫路城のある「姫山」であるとされています。「蚕子」は古語で「ひめじ」といいました。
地名としての「姫路」という呼び方は、江戸時代初期、池田輝政が姫路城を築き、城下町を整備した当時の文献に見られます。
榊原騒動
榊原政岑が発案し今に続く
伝統のまつり「姫路ゆかたまつり」
姫路城主榊原政岑は信仰心に厚く、ゆかた祭を始めたことでも知られる心豊かな城主。しかし、日光代参の希望が幕府に聞き入れられなかったことに不満を持ち、酒色におぼれて、吉原通いを始じめました。そして「色婦録」にも艶名をうたわれた名妓高尾を落籍。姫路に連れ帰って、城内西屋敷に住まわせました。
これらの行状が、当時倹約を推し進めていた幕府に知れ、政岑は糾弾されます。
やがて政岑は20代の若さで隠居を命じられ、榊原家は越後高田へ転封となり、高尾も政岑に従い、共に越後高田へと下ったのでした。
棟梁・桜井源兵衛の死
歌川貞秀作「真柴久吉公播州姫路城郭築之図」
池田輝政による姫路城築城の時、完成した天守から一人の男が身を投げて自殺したといわれています。その男の名は、城普請にあたった大工の棟梁・桜井源兵衛。
輝政に命じられ、9年間、寝る間も惜しんで仕事に打ち込み、やっと完成した姫路城。しかし、彼には、丹精込めて造り上げた天守閣が巽(東南)の方向に少し傾いているように思えてなりませんでした。
そこで妻を伴って天守に登ると、「お城は立派ですが、惜しいことに少し傾いていますね」と指摘されてしまいます。「女の目にわかるほどとすれば、自分が計った寸法が狂っていたに違いない」とがくぜんとした源兵衛は、まもなくノミをくわえて飛び下りたといわれています。
実際に城が東南に傾いていたのは解体修理で確かめられています。本当の理由は、東と東南隅の石垣が沈んだためでした。
お菊井戸
上:お菊神社、下:お菊井戸
城内の上山里丸と呼ばれる広場にある「お菊井戸」が、有名な「播州皿屋敷」に出てくる井戸だといわれています。
永正年間のこと、城主小寺則職の執権青山鉄山が城の乗っ取りを計画。これに気づいた忠臣の衣笠元信は、愛妾のお菊を青山家に女中として送り込み、陰謀を暴きます。しかし、努力のかいもなく、青山一家のクーデターは成功。それでもお菊は青山家に残り、龍野に逃れた元信に情報を送っていましたが、ついに町坪弾四郎に気づかれてしまい、それを盾に結婚を迫られます。しかし、お菊はどうしても首を縦に振りません。腹を立てた弾四郎は家宝の皿10枚のうち1枚を隠し、お菊の不始末として責め殺して井戸に投げ込みました。それからというもの毎夜、「1枚、2枚…」と皿を数えるお菊の悲しげな声が井戸から聞こえるようになったといいます。
その後、元信ら忠臣によって鉄山一味は滅ぼされ、お菊は「於菊大明神」として十二所神社の境内にあるお菊神社に祭られています。
姥が石
羽柴秀吉が姫山に三層の天守を築いていたときのこと、城の石垣の石がなかなか集まらず、苦労しているという話が広まっていました。城下で焼餅を売っていた貧しい老婆がそれを聞き、「せめてこれでもお役に立てば」と古くなった石臼を差し出しました。
これを知った秀吉は大変喜び、石臼を現在の乾小天守北側の石垣に使いました。この話はたちまち評判となり、人々が競って石を寄進したため、工事が順調に進んだといわれています。
宮本武蔵の妖怪退治
大天守最上階にある刑部神社
木下家定が城主であった時代のこと、姫路に立ち寄った宮本武蔵が名前を隠して足軽奉公をしていました。そのころ、城に妖怪が出るといううわさが広まっていましたが、武蔵が平気で夜の出番を勤めていたことが家老の耳に入り、名高い武芸者であることが知られました。
木下家の客分にとりたてられた武蔵に、妖怪退治の命が下りました。武蔵がある夜、灯ひとつを持って天守閣に登り、3階の階段にさしかかった時、すざましい炎が吹き降り、地震のような音と振動が。武蔵が腰の太刀に手をかけると、辺りはまた元の静けさに戻りました。4階でもまた同じことがありましたが、構わず天守を登り、明け方まで番をしていたところ、美しい姫が現れ「われこそは当城の守護神、刑部明神なり。その方がこよい参りしため、妖怪は恐れて退散したり。よって褒美にこの宝剣を取らす。」といって姿を消しました。武蔵の前には白木の箱に入った郷義弘の名刀が残されていたということです。
お夏・清十郎
比翼塚
清十郎は室津の造り酒屋の息子で、何不自由もなく育った美青年。訳あって、19歳の時、姫路本町の米問屋但馬屋に奉公に出ますが、いつしかそこの美しい娘・お夏と恋仲に。しかし、2人の恋は許されず、思い余って駆け落ちしますが、捕えられ、清十郎は盗みのぬれぎぬで、25歳の若さで処刑されてしまいます。お夏は悲しみのあまり発狂し、清十郎の姿を求めて町をさまよい歩くのでした。この物語は、井原西鶴、近松門左衛門の小説や戯曲などで全国に広く知られるようになりました。悲劇の2人の霊をなぐさめる比翼塚が、野里の慶雲寺にあります。
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