姫路城に縁(ゆかり)のある家紋
- 更新日:
- ID:33923
おことわり
掲載した内容は歴史上のことですので、諸説があります。
ご了承ください。
藤巴(黒田家)
天文14年(1545年)、御着城主であった小寺氏の命により、黒田重隆が姫路城を預かることになりました。永禄4年(1561年)、重隆は息子・職隆(もとたか)とともに、御着城の出城として新しく城を築城し、これが姫路城の建築史に残る城郭の誕生と言われています。
「藤巴」の家紋には、播磨時代の主君・小寺氏から拝領した家紋をアレンジしたという説と、官兵衛が有岡城主・荒木村重に幽閉された際に土牢から見えた藤の花に励まされたことに由来するという説があります。
木下沢瀉(木下家)
天正13年(1585年)、豊臣秀長が大和郡山に移ったのち、秀吉の正室で北政所おねの実兄の木下家定が2万5千石を領して姫路城主となりました。
「木下沢瀉(きのしたおもだか)」は、秀吉(木下藤吉郎)がまだ名もなき時代に好んで「沢瀉(おもだか)」の紋を用いたことに由来しており、江戸時代以降に葉と茎の部分を簡略化した独自の家紋として受け継がれていきました。
揚羽蝶(池田家)
池田輝政は、慶長6年(1601年)より9年の年月と推定2,430万人もの人々を動員し、現在の大天守・小天守を連ねた連立式の白い巨城を完成させました。また、一族の領地をあわせると100万石に近いことから「姫路宰相百万石」とも「西国将軍」とも呼ばれました。
「揚羽蝶」が家紋となったのは、池田家履歴略記によれば輝政の父にあたる池田恒興(信輝)が主君の織田信長から拝領した麻裃(あさかみしも)に蝶の紋が付いていたことが大きな由来とされています。
丸に立ち葵(本多家)
池田輝政没後、忠政が城主として姫路に移りました。忠政は西の守りを固めるために姫山の西の鷺山に西の丸、三の丸に自分の館、忠刻と千姫のために武蔵野御殿を建てました。西の丸には、千姫の侍女が住む長局なども整えたと言われており、現在の姫路城の姿は、この時代にほぼ完成したものと考えられています。
「丸に立ち葵(まるにたちあおい)」は、葵紋の一種で、徳川家の家臣として活躍した本多氏の代表的な家紋として知られています。別名「本多立ち葵」とも呼ばれ、三枚の葵の葉を立ち上がらせたデザインが特徴です。
葵紋は元来京都加茂神社の神紋の二葉葵から発しています。本多氏の祖先は同社の神官であったことから葵紋を使用したと伝わります。
九曜(松平家(奥平))
奥平松平家の祖・松平忠明は大坂冬夏両陣で活躍し、慶長20年(1615年)、夏の陣直後に大坂に入封しました。大坂の街の復興・整備に努め、「天下の台所」の基盤をつくり、元和5年(1619年)に郡山城主となった後、寛永16年(1639年)に関西総探題と言われた姫路城城主となりました。
「九曜(くよう)」の家紋は、奥平家の始祖が三河国(現在の愛知県)の土豪であった時代に、主君であった今川氏や織田氏から褒美として拝領した、あるいは信仰する寺社から授かったことに由来すると言われています。 「九曜紋」は、中央の星と周囲の8つの星(太陽、月、惑星などを神格化したもの)を図案化したもので、平安時代から魔除けや交通安全の信仰を集めた吉祥の家紋です。
五七の桐(松平家(結城))
松平直基が慶安元年(1648年)に姫路へ入封して以降、結城松平家はたびたび姫路藩主を務めました。彼らは徳川家康の次男・結城秀康を祖とする家系で、「引っ越し大名」としても名高い松平直矩が有名です。
結城松平家の家紋に「五七の桐」が使われているのは、結城秀康が、豊臣秀吉の養子となった際に秀吉から下賜されたことが由来とされています。
源氏車(榊原家)
榊原家は忠次、政房の2代18年間と、政邦、政祐、政岑(まさみね)、政永の4代37年間の2度、城主となりました。そのなかでも政岑は「風流大名」として知られ、豪遊・奔放であったことから20代で隠居を幕府より命じられてしまいました。政岑は越後高田へ転封される際に、姫路の思い出として「ゆかた祭り」を始めたと言われています。
「源氏車」は、伊勢神宮の外官の紋でもあり、神官を務めていた榊原氏が用いていたと言われています。榊原康政を祖とする榊原氏との関係は定かではありませんが、康政系榊原氏はもとより「五七の桐」を用いたと伝わるので、あるいは神官の榊原氏に倣ったのかもしれません。
剣酢漿草(酒井家)
寛延2年(1749年)、酒井忠恭の代に上野(こうずけ)前橋より、姫路に入封して以来、10代120年にわたり姫路城主を務め、現在の姫路文化の礎を築いたと言われています。
「剣酢漿草(けんかたばみ)」は、「酢漿草(カタバミ)」の強い生命力と「剣」の示す権威や武勇とを組み合わされたことが由来とされます。ただし、酒井家の家伝によれば先祖は葵紋を使っていたようです。家康の先祖にあたる松平氏から所望され、葵紋を献上した代わりに「形が似ている」片喰紋を賜ったと伝えられています(※同様の言い伝えは本多家にも伝わる)。








