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姫路市立城郭研究室

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    姫路城への道しるべ 第5章 城下町、港、街道

    • 公開日:2021年7月5日
    • 更新日:2021年9月25日
    • ID:17240

    第5章 城下町、港、街道

    橋本政次『姫路城の話』から

    城下町については「各曲輪はどんなに利用したか」(53ページ)や「役所、学問所、稽古場、牢屋、仕置場などはどこにあったか」(55ページ)を読んでみてください。街道と港については本書には関係項目がありませんので、下記の参考文献をみてください。
    城下町については、『城のつくり方図典』196ページから205ページまでの「城下町の役割」、港と街道については、206ページから209ページまでの「街道と港をつくる」をみてください。

    城下町について

    播磨学講座3 花盛りの城下で

    城下町については、城の最も外側となる外郭内に武家屋敷や町屋をどれくらい取り込むかを基準に、「戦国期型→総郭型→内町外町型→町屋郭外型〔郭内専士型〕→開放型」への発展が想定されており(矢守一彦『城下町のかたち』筑摩書房、1988年、3ページから25ページまで)、姫路は総郭型から池田時代に内町外町型に変化したとされます。また、大手口と主要町通りとの関係から竪街型と横町型に分ける場合は(足利健亮『中近世都市の歴史地理』地人書房、1986年)、江戸時代の姫路は横町型です(矢守一彦「城下町の形成と変容」『日本名城集成 姫路城』小学館)。
    具体的な歴史や構造については、「道しるべ第1章」でもふれた横山忠雄「城下町姫路の構造と繁栄」(『播磨学講座3 花盛りの城下で』神戸新聞総合出版センター、1992年)や糸田恒雄「城下町姫路の成立と形態」(『播磨の地理 人文編』神戸新聞総合出版センター、1993年)が、まとまっています。このなかで横山氏は、秀吉時代の縦町型が池田時代に横町型へ変更したとする視点から、秀吉時代には喜斎門のある東側に大手口が開いていた可能性を主張されています。
    街路計画は、天守と広峰山を結ぶ線を基準とした築城ライン、城下町縁辺の条里ライン、播磨国惣社周辺にみられるほぼ正南北方向の惣社ラインの三つが主要なものです(堀田浩之「築城プランと基準線」『姫路市史』第14巻別編姫路城)。堀田氏によれば、築城ラインは池田輝政の築城時に設定されたものだそうです。一方、惣社ラインは奈良時代中頃までさかのぼり、古代国府の影響と推定されます(山本博利「播磨国府と国分僧寺」『地中に眠る古代の播磨』神戸新聞総合出版センター、1999年)。また、宮本雅明氏は城下町街路の設定基準として天守を重視しており、姫路も飾磨街道の方位は天守を基準としたと分析しています(「公権力の一元化と城下町」『国宝と歴史の旅5 城と城下町』朝日新聞社)。このように姫路城下町は、さまざまな時代の町屋が組合わさって複合的に形成されていました。
    「町奉行やしき」は内京口門内、「郡奉行やしき」は喜斎門外に存在しました。この他、会所などの公的施設の位置や武家屋敷の変遷、寺町の寺院構成など城下町内部の様子については、八木哲浩「城下町の概況」(『姫路市史』第14巻別編姫路城)も参照してみてください。
    現存する町屋については、多淵敏樹「城下の町屋建築」(『日本名城集成 姫路城』小学館)が参考になります。

    港について

    姫路城下町の外港であった飾磨津については、「文化財見学シリーズ」14『「飾磨津」をたずねて』(姫路市教育委員会)があります。また、「舟運・廻船と港町」(『街道の日本史39 播州と山陽道』吉川弘文館、2001年)には、飾磨津のほか網干や室津などの港町の概説がありますし、室津については、柚木学「室の津」(『地方史事典』弘文堂、1997年)に要点がまとめてあります。

    街道について

    歴史の道調査報告書第二集 山陽道(西国街道)

    西国街道は山陽道とも呼ばれ、瀬戸内海沿いを京都から下関まで結ぶ主要街道でした。『山陽道 行き交う人々・支える人々』(太子町立歴史資料館、2006年)には播磨国内のルート地図があり、江戸時代の旅の様子や街道の維持管理についての記述もあります。街道沿いの景観は、長州藩の参勤交代用の参考絵地図である「中国行程記」に描かれており、橘川真一『播磨の街道「中国行程記」を歩く』(神戸新聞総合出版センター、2004年)に大国正美氏の解読付きでカラー写真が収録されています。また、橘川真一編著『兵庫の街道いまむかし改訂版』(神戸新聞総合出版センター、1994年)に収録されている太田南畝(蜀山人)の紀行文「革令紀行」からは、御着あたりから天守が見えたことなど、当時の道沿いの様子がうかがえます。
    さらに、文献や考古資料からの古代から近世までの山陽道の分析については、『歴史の道調査報告書第二集 山陽道(西国街道)』(兵庫県教育委員会、1992年)も参考になるでしょう。山陽道以外の街道には、姫路と室津を結んでいた室津道があります。室津道はたつの市揖保川町正条で西国街道から分かれて室津に向かう道と、姫路から網干の津市場を通る二つのコースがありました。後者については、「文化財見学シリーズ」11『室津道を訪ねて』、同13『室津道を訪ねて(その二)』(姫路市教育委員会文化課)にルートが書かれています。この「文化財見学シリーズ」にはほかに、同4『「巡礼道」をたずねて』や同5『「山陽道」をたずねて』などもあります。

    ここに注目

    姫路城下町では、城だけでなく武家屋敷や町家など全体を堀や土塁で囲む総構(惣構)を採用していました。池田輝政が城主であった岐阜城や吉田城なども総構があり、池田輝政の惣濠好みとする説もあります(吉田正久氏談)。
    総構そのものは戦国時代から使われており、播磨では黒田如水の主家である小寺氏の御着城(姫路市)や加古川市の神吉城などにも存在しました(『日本城郭大系12』新人物往来社、1981年)。織田信長時代の清洲城や小牧城にも総構が設けられていたようです。ただ、この段階では家臣や直属の商・職人の居住地など一部を囲んだものでした(小島道裕「戦国・織豊期の城下町」『日本都市史入門 2 町』東京大学出版会、1990年)。近世城下町の総構の出現については、仁木宏「「御土居」への道」と前川要「「総構」の成立と展開」(ともに『豊臣秀吉と京都』文理閣、2002年)で分析が行われています。姫路も複合的な要因で総構が出現したと考えられます。

    キーワード単語

    1. 総構
    2. 築城ライン・惣社ライン・条里ライン
    3. 国府
    4. 会所
    5. 小寺氏
    6. 御着城
    7. 小牧城