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    姫路市の都市形成

    • 公開日:2015年3月27日
    • 更新日:2023年10月30日
    • ID:3550

    姫路市の都市形成について段階ごとにご説明します。

    概要

    第1段階 城下町としての発展

    姫路の地は、古くから西国街道と但馬、因幡、出雲の街道が結節する交通の要衝として栄えてきました。奈良時代に国府や国分寺が置かれて以来、播磨の中心として発達してきました。

    自動車時代を迎えた今日でも、現在の国道線(国道2号)は西国街道を踏襲しています。

    中世には、中国経営の拠点として、豊臣秀吉が姫山に三層の天守閣を持つ城郭を築き、17世紀初頭には、池田輝政が現在の5層の天守閣を持つ城郭を築城し、城下町の繁栄に努めました。

    その後、徳川の親藩、譜代大名が城下を治め、新田開発や塩田開発、鉄鍛冶、木綿、皮革等の殖産が振興され、姫路藩として江戸時代を通して播磨の政治と経済の中心であり続けました。

    城・寺社・街道の位置

    第2段階 軍都および工業都市

    現在の姫路市は、明治22年(1889年)に、江戸時代の城下町とその外縁部を市域とする人口約25,000人の都市として、全国30市とともに我 が国初の市制を施行したところからはじまります。また、陸軍師団のうち第10師団が設置されてからは、長く軍都としての側面を持つことになります。

    近代的な都市づくりの第一歩として、生野から飾磨港間の馬車道、飾磨港の整備が行われるとともに山陽鉄道や播但鉄道が開通しました。また、明治36 年(1903年)には、姫路駅から小溝小路、軍用地を経て野里を結ぶ南北幹線道路の整備を行いました。これらの要因によって市街地の中心は西国街道筋から 御幸通り筋に移りました。

    大正時代には、姫路駅周辺は一大ターミナルとして商業・業務施設が集積するとともに、旧制姫路高校が大正13年(1924年)に開校し、文教府としての側面も持つようになります。

    本市の工業化は、明治後期から昭和にかけ繊維関係の工場が次々に建設され、また大正から昭和にかけて臨海部に製鉄所等の重工業が進出し、人口の集積 とともに市街地が拡大しました。大正末期から始まった土地区画整理事業は、上記の工場進出とあいまって、市街地拡大の大きな推進力となりました。

    中心市街地と臨海部を結ぶ幹線道路

    第3段階 戦後の復興と市街地の拡大

    太平洋戦争では、2回の空襲により市街地は壊滅的な打撃を受けましたが、戦後復興を早期に果たすべく市街地の改造に取り組み、姫路駅周辺の復興が図 られました。この計画の柱は、曲折が多くて狭い旧城下町時代の道路網を近代的な広い道路網に改修することであり、戦災復興土地区画整理事業の実施により、 国道線(国道2号)や大手前通りなど今日に至る市街地の骨格が形成されました。

    戦災住宅対策は、都心部の旧軍用地の住宅建設に始まり、昭和21年(1946年)頃から公営住宅の建設が相次ぎました。昭和25年(1950年)頃からは、民間の住宅建設が盛んになり、八丈岩山一帯まで宅地化が進みました。

    高度経済成長期には、播磨臨海工業地帯の中心としての役割を担い、商工業都市として今日の姿へと発展を遂げてきました。昭和45年(1970年)頃 には姫路駅と臨海部の市街地がほぼ連たんするようになってきました。この市街地の拡大は、おおむね土地区画整理事業と連動しています。

    また、郊外部での住宅団地の開発が進むと同時に、無秩序な市街地の拡大に伴う都市環境の悪化等の問題が生じてきました。

    市街地が拡大する様子

    第4段階 高度成長期から安定成長期へ

    昭和44年(1969年)に新都市計画法、都市再開発法が施行、昭和45年(1970年)3月に姫路市基本構想が策定され、本市の都市づくりの基本方向が定められました。

    工業や産業の成長に伴い、国民の生活も大きく変化しましたが、一方で公害問題が全国で顕在化しました。これに対し、市街地の環境を保全するため、工業地域と一般市街地の間に緩衝地帯として、グリーンベルト(緩衝緑地)が整備されました。

    また、昭和46年(1971年)には、無秩序な市街地拡大の抑制と計画的な市街化を図るため、市街化区域と市街化調整区域の区域区分が決定され、優先的に市街化を図る地域と市街化を抑制する地域が区分されることになりました。

    計画的・効率的な都市施設の整備も行われ、鉄道網ではJR山陽新幹線新大阪~岡山間が開通し、道路網では国道2号姫路バイパス、播但連絡道路が開通 するなど、国民経済の発展に必要な都市施設が完成していきました。市街地においては、土地の合理的かつ健全な利用に向け、北部副都心の整備や市街地開発事 業が進められました。

    姫路市基本構想図

    第5段階 人口減少社会の到来と少子高齢化の進展

    平成に入り、バブル崩壊を経て、これまでの高度成長の時代は終わりを迎えました。また、少子高齢化が急速に進行しており、人口減少社会の到来を見据 えた都市づくりが求められるようになりました。都市計画制度も用途地域の細分化(1992年)、区域区分制度の選択制(2000年)、大規模集客施設の立 地規制の強化(2006年)といった改正が行われ、これまでの都市の拡大成長を前提とした都市づくりから、都市機能を集約した都市づくりへの転換が行われ ています。

    このような中、平成5年(1993年)には姫路城が法隆寺とともに日本で初めて世界文化遺産に登録され、平成8年(1996年)には、全国11市とともに最初の中核市へ移行しました。

    また、平成18年(2006年)に周辺4町と合併し、新しい姫路市となり、地方分権時代にふさわしい確かな一歩を踏み出したところです。

    都心部では、JR姫路駅周辺地区での鉄道高架化が平成20年(2008年)に完成し、土地区画整理事業、関連道路事業等により、都市機能の集積と南 北市街地の一体化が進んでいます。また、JR姫路駅高架下への大型商業施設の出店や新駅ビルの建設など、中心市街地も賑わいを見せています。

    都市機能を集約した都市づくり

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