Vol.10 料理人 / 中江悠文さん
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姫路で食の未来を描く——世界を巡った料理人が、この地に店を構えた理由とは

海も山も川もある——自然豊かな姫路を語るとき、中江悠文さんは、まるで宝物を並べるように表情を緩ませる。「ここは食材の宝庫なんです。生産者の顔が見え、その背景にある物語まで感じられる場所。僕にとって姫路は、料理人としての原点に立ち返らせてくれる土地なんです」。かつてはミシュラン三つ星店で料理長を務め、世界各地で経験を重ねた若き料理人が、なぜ故郷へ戻り、この地で挑戦を続けるのか。その軌跡をたどります。
中江 悠文(なかえ ひさふみ)さん
1983年、兵庫県生まれ。学生時代のアルバイトをきっかけに料理人を志し、22歳で単身オーストラリアへ渡る。以降、ロンドン、ドバイなど海外で修行を重ね、帰国後は東京・赤坂の料亭や名店「銀座小十」で日本料理の技術を学び、料理長を務めた。2019年4月に故郷・兵庫へ戻り、「日本料理 淡流」を開店。現在は姫路の地で国内外の多くの客をもてなし、生産者の想いを料理に込めて伝えている。
日本を離れて見えた“学ぶべきこと”

兵庫県高砂市で育ち、学生時代は加古川や神戸で過ごした中江さん。料理の世界に興味を持ったのは18歳のころで、鶏料理店でのアルバイトがきっかけだったといいます。「カウンター越しにお客さんと会話をする楽しみと、料理が上達していく喜びを実感しました。店長が楽しい人で、よくさまざまな店に連れて行ってくれたことも大きかった」と振り返る中江さんは、19歳で調理免許を取得しました。
幼い頃から海外への憧れを持っていた中江さんは、大学時代は独学で語学を学ぶ傍ら、留学生たちとも積極的に交流を深めていったそうです。「語学と料理をもっと学びたい」という思いは日に日に強まり、卒業後、オーストラリアへ渡る決意を固めます。

辞書をポケットに入れ、アルバイトをしながら英語を身につける毎日。「多国籍の人たちが集まり、文化も食材も多様。刺激の宝庫でした」と今では笑って話しますが、当時は仕事はおろか、英語でのコミュニケーションもままならず、生きることに必死だったといいます。それでもこつこつと努力を続けた結果、その姿勢が周囲に認められ、メルボルンでは世界的に有名なレストラン「NOBU」で働く機会を得て、さらに成長を遂げました。

その後はロンドン、ドバイへと活躍の場を広げ、ドバイでは副料理長に抜擢。しかし、次第に“ある違和感”が芽生えたといいます。「自分の実力が伴っていないと感じたんです。日本料理の基礎となる食材をよく知らないまま“日本人料理人”として働くことに危機感を覚えました」。海外で日本について問われるたびに答えられないことが増え、日本を離れて初めて母国の奥深さを痛感。この気づきが、帰国を決意する大きなきっかけとなりました。
“本物”を求めて赤坂へ —— 厳しさの中で見えた未来

帰国後、中江さんが飛び込んだのは東京・赤坂の料亭でした。厳しい環境に身を置き、“日本料理の根っこ”を学び直すべく、まっさらな気持ちでその世界に身を投じたといいます。そこで待っていたのは、個室での接客をはじめ、掛け軸や器といった細部の演出に至るまで、全体で完成される“日本料理の世界観”。その偉大さに触れるたびに強い衝撃を受けたそうです。

そして1年後、中江さんは銀座の三つ星店へと籍を移します。ここで大きな転機となったのが、日本料理界の巨匠・奥田氏との出会いでした。メディアにも多数取り上げられ、海外の法律すら変えるほどの影響力を持つ奥田氏について尋ねると、「あれほど日本の食を真剣に考える人を出会ったことがありませんでした。日本料理の未来、そして若い世代の育成に情熱を注いでいる。心が震えるほど影響を受けました」と語ります。
この頃から中江さんの夢は、「自分の店を持つ」というものから、「日本料理全体をどう未来に繋いでいくか」へと広がっていきました。
産地に足を運び、背景を知る料理人へ

赤坂と銀座での日々を経て、中江さんは地元・兵庫へ戻ることを決意。赤穂の旅館で総料理長として2年間勤務したのち、独立に向けた準備を進めます。その過程で始めたのが、酒造りや農家訪問など、“料理の背景”を知るための取り組みでした。素材の背後にある「土壌・人・流通」を理解せずして料理は語れないという思いから、積極的に産地へ足を運んだといいます。
数ある経験の中でも、中江さんがどうしても忘れられない出来事が赤穂での勤務時代にありました。とある地元の生産者から「うちの食材を使ってほしい」と依頼を受けた際、当時の中江さんは、扱いづらさから「使えない」と断ってしまったことがあったそうです。後に、その農家が廃業してしまったという知らせが届きました。「自分の判断がひとつの人生を変えてしまった。本当にショックでした。だからこそ今は、“周りの人たちも幸せになる料理”を作りたいと強く思います」と語ります。
そんな中江さんは、地元食材の魅力を自身のSNSで発信。ブランド化されていない農家にもスポットライトを当て、地域全体が盛り上がる未来を描く一人として活動しています。
姫路から世界へ――世界中のゲストを迎える“扉”に

姫路城をはじめとする観光資源、豊かな海山の幸、産地との近さ──。すべてがそろう姫路を、中江さんは「世界中から来てもらえるポテンシャルがある」と語ります。しかしその一方で、“地域色”という大きな壁にも直面しました。オープン当初は昼1万円台のコースを設定していたものの、「高い」と言われることが多く、料理に対する価値観の違いに悩む日々が続いたといいます。
それでも中江さんは、“高いと言う人の基準”に合わせるのではなく、「自分が作りたいもの」「自分が届けたいこと」を一貫して追求し続けました。現在はハイエンドの価格帯でありながら、全国から食を楽しみに訪れる客が後を絶たないほどの有名店へと成長しました。

創業当時から大切にしてきた“想い”は、今も変わりません。「僕は、食材や生産者と一緒に盛り上がっていける関係を大切にしたいんです」と、中江さんは静かに、しかし力強く語ります。そして続けて、「姫路の方は少し保守的な一面もありますが、それは“姫路が一番”という強い地元愛があるからこそ。そこが魅力でもあります」と微笑みます。
これからの姫路に必要な“食と観光の循環”

「飲食店だけでなく、泊まる場所、移動手段、地域の体験など、観光全体の選択肢が増えれば、姫路はもっと魅力的になる」と、中江さんは今後、観光業にも視野を広げたいと語ります。「関わる人すべてに恩恵があるなら、どんな形でも挑戦したい」と、近年は青森のフレンチシェフとのコラボイベントや、神姫バスとの朝食プロジェクト、VIP向け弁当の開発など、料理の枠を超えた取り組みも積極的に行っています。

「姫路を一言で表すなら?」という問いには、「食材が豊富なまち」と迷いなく答える中江さん。「自然、食材、人。すごいポテンシャルを持っているのに、まだまだ発信しきれていない。だからこそ、僕もこのまちと一緒に成長していきたい」と、これからの姫路の未来を力強く見つめています。

そして最後にこう語ります。「姫路は、挑戦すれば周囲が応援してくれる場所です。自然も人も豊かで、暮らしやすい。僕自身、世界を回ったあとで改めて“ここがいい”と実感しています。自分のペースで、でものびのびと夢を追えるまちですよ」。
世界を巡り、食の本質と向き合い続けてきた料理人が選んだ場所──姫路。
この地で紡がれる料理は、きっと今日も、生産者と地域、そして未来を繋いでいくことでしょう。

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