Vol.12 介護タクシー会社経営 / 濵田準さん
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「祭りが人生の中心にあった」——伝統を受け継ぐ水墨画家の、転機と覚悟の物語

「日本三大喧嘩祭り」の一つに数えられ、全国的にも名高い「灘のけんか祭り」。約500年続くこの大祭の舞台となる姫路市・東山で生まれ育ち、今もこの地に根を張って暮らす画家がいます。それが、濵田準さん。濵田さんの人生の中心には、幼いころからいつも“祭り”がありました。
濵田 準(はまだ じゅん)さん
1984年、姫路生まれ。地元の大祭「けんか祭り」の地で育ち、幼い頃から根っからの“祭り人”として地域の催事を支え続けている。2020年より祭りをモチーフにした水墨画制作を開始。祭りの躍動や空気感を墨で表現する独自の作風が注目を集め、これまでに多様な作品を手がけている。2022年には介護タクシー会社を設立し、地域に寄り添う事業を運営するかたわら、創作活動にも精力的に取り組む“二足のわらじ”スタイルを確立。介護事業者としての視点と、祭り人としての情熱、そして水墨画家としての感性を掛け合わせ、地域文化に寄り添う新たな表現を模索し続けている。
幼少期から、祭りは“生活そのもの”だった

「物心がつく前から、祭りは特別なものではなく日常でした」そう話す濵田さんは、代々祭りに深く関わってきた家の生まれ。幼稚園のころには祖父母の家に飾られていた祭りのカレンダーを眺め、想像を膨らませながら絵を描くのが日課だったと言います。

小学1年生で地元の子ども会に入ったことをきっかけに、13歳になると念願の「太鼓打ち会」へ加入。「もともと祖父が所属していたことに加え、父の連中※であり、同級生でもある方が「太鼓打ち会」の会長を務めていたこともあり、幼い頃から太鼓への憧れは自然と高まっていきました。周りの大人たちが力強く太鼓を打ち鳴らす姿がとにかくかっこよかったですね」と語ります。先輩や後輩にも恵まれ、毎日の練習は苦しさよりも楽しさが勝るほど。太鼓の音に包まれる時間が、何よりの喜びだったと振り返ります。
※連中(れんじゅう)とは…冠婚葬祭も共にする家族のような仲間
「真打、添え打ち、場面ごとに入れ替わる打ち手の役割。何十人、何百人という人の動きが、自分の太鼓の一打に呼応するあの一体感は格別です。とくに圧巻なのが、毎年10月15日に行われる本宮。御旅所※へ向かう途中、広畠※で次々と入山していき、神輿の後に屋台同士がぶつかり合う――あの瞬間です。練り合わせの勢いで屋台が大きく傾き、その攻防で勝敗が決まる。張りつめた空気の中、勝利した瞬間にどっと沸き上がる何万人もの歓声。熱気が一気に押し寄せ、その声を受けて屋台がさらに高く舞い上がる。あの景色は、太鼓打ちにしか見られない、特別なものです」。そう語る表情は、今も少年のように輝いています。
※御旅所(おたびしょ)とは…祭礼のとき、神輿を本宮から移してしばらく安置する場所
※広畠(ひろばたけ)とは…松原八幡神社の御旅所がある御旅山のふもとに広がる平地で、神輿や屋台が集結し、差し上げ・練り・ぶつかり合いを行う場所

絵を褒めてくれた存在も、ここで大きく影響します。畳屋を営む祖父は、祭りでは広報役としてマイクを握り実況を務める、地元では名の知れた人だったとか。巧みに太鼓やお囃子に合わせて“口説き唄”を歌い上げる姿は、幼い濵田さんにとって憧れそのもの。「祖父は、幼い私が描いた絵をいつも褒めてくれ、自信を与えてくれる人でした。そんな祖父は私にとって自慢であり、憧れの大人でした」。
人生を揺さぶった「転勤」と「取締役」のタイミング

順調に会社員として働き、祭りでも経験を積んでいく中で、37歳のとき人生の岐路を迎えます。祭りの取締役員を務める4年間の役が巡ってきた同じタイミングで、勤め先の商社から転勤の可能性が出てきたのです。
「祭りを守るため、自分はずっと地域の若い世代にアドバイスしてきた立場でした。いざ自分が祭りを執り仕切る役員として立たなければならない、そんな大事な時期に自分だけ外へ出てしまっていいのか…」と、人生で一番悩んだという濵田さん。悩み抜いた末にたどり着いたのは、“仕事を辞めてでも地元に残る”という強い覚悟でした。「仲間たちと東山を更に強くて魅力のある村にしてきたい」。その思いは、祭りに生きてきた自分への責任であり、地域への恩返しでもありました。
当時、村には祭りを愛する人は多かったものの、屋台練りでは悔しい思いをする場面が多々あったそう。だからこそ先輩後輩を巻き込み、“もっと良い祭り”をつくろうと、濵田さんは本気で動き始めました。
起業、そして夢だった“絵の世界”へ

「これが最後のチャンスかもしれない」。祖父が自営していた影響もあり、濵田さんは自分の道を探し始めます。その最初の一歩となったのが“起業”でした。「地元に役立つ仕事がしたい」と考え、介護タクシーの会社を立ち上げます。そしていよいよ、長年胸に秘めてきた“絵を描く”という夢が動き出します。
コロナ禍で祭りが中止になり、時間が生まれたことも追い風になりました。幼少期に習字を習っていたことから筆の扱いには慣れていたものの、本格的に筆と墨を使って絵を描くのはこれが初めてだったそうです。

構図や描き方はすべて独学で、「想像で描く」という工程も作品の大きな特徴の一つです。実際の祭りでは決して横一列に並ぶことのない屋台も、濵田さんの絵の中では一望できるように描かれています。幼い頃にカレンダーを見て絵を描いていたという習慣が、現在の表現にもつながっているようです。
制作は、灘地域を一望できるアトリエで行われています。穏やかな空気が流れるその場所で、愛犬「鼓太郎」が静かに寄り添いながら、真剣なまなざしで作業を見守っています。

最初に描いたのは、朱が炎のように揺らぐ「悪疫退散の神 赤鎮馗」※。水墨画の一種ともいえる「顔彩」を用い、濃淡や線だけで祭りの熱気や装飾の細やかさを描き分けています。
※悪疫退散の神 赤鎮馗(せきしょうき)とは…唐代の伝説的人物・鍾馗は病魔を祓う神。特に赤い鍾馗像は疱瘡除けの願いを込めて信仰された
YouTubeで作品を発信し始めた37歳の年を境に注目が集まり、これまでに二度の個展を開催。看板、祭りのお品書き、墨のみで仕上げた作品など幅広い依頼が舞い込み、5年間で制作した作品は100点を超えます。

中でも印象深い作品となったのが、津田天満宮から依頼された絵馬。高さ、幅ともに1メートルを軽く超える大作です。思い描く作品に仕上がるまで何度も描き直し、何カ月もかけて仕上げた思い入れの深い作品。辰年、巳年と2年連続で任され、「光栄なご依頼に感謝しかない」と語ります。
支えてくれた家族と、決めた道を“楽しむ”という覚悟

「自分で決めた道だから、楽しむ」どんなに大変でも後ろ向きに捉えず、責任の中に喜びを見つける。介護の仕事では“生のありがとう”に触れ、絵の活動では人との縁が広がる。その毎日が、濵田さんの心を豊かにしているといいます。
これからの挑戦と、姫路への深い誇り

「4年間の取締役員も終わりましたので、来年、太鼓打ち会に戻ります」現役としてではなく、若い世代を育てるサポート役として。祭りを未来へつなぐための決断です。
絵の活動では、神社への寄贈や、祭りの一瞬を切り取った作品にさらに挑戦したいと語ります。「祭りの依頼は、本当に誇りなんです。屋台は村の宝。その宝を描けることがうれしい」と、濵田さんは目を輝かせます。

姫路の魅力を尋ねると「祭りの団体に入ると、まるで家族のように受け入れてくれる。思いを1年かけて準備し、本番で爆発させる。そんな“華”のあるまちなんです。そして訪れる人にも姫路のさまざまな祭り文化に触れてほしいですね」濵田さんは力強く答えます。老若男女が祭りを中心に団結し、新しく移り住む人も温かく迎え入れる風土——それが姫路の良さだと胸を張ります。
濵田さんの描く一枚一枚には、姫路の祭りが宿す熱、人を繋ぐ力、そして彼自身の人生が刻まれています。筆を走らせるたび、このまちの息づかいが紙に宿る。その作品は、白浜で生きる一人の祭り人の物語そのものです。

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