大津校区
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魅力ある地域づくりのテーマ
「高めよう『大好き大津』のまちづくり」
地域の概要
大津茂川と東汐入川に挟まれ、旧揖保郡の東南端に位置するこの大津の地は、かつて三本の砂堆が東西に伸びる海であった。この砂堆を巧みに利用して堤防となし、北から南へと広大な土地を拓いていく過程が大津千年の歴史でもある。
「播磨国風土記」の開拓説話にはじまり、新田郷から福井荘へと進む。福井荘は現大津区・勝原区・網干区と一部太子町におよび、氏神魚吹八幡神社の氏子24か村の範囲である。当荘の文献の初見は仁平2年(1152)のことで領主は藤原頼長であったが、頼長はこれを興福寺に寄進。間もなく起こった保元の乱によって頼長が戦傷死すると勝利した平氏がこの地を得るが、短期間に終わった。平氏政権の後は後白河院領となり、高野山に寄進されることになる。この時、荒廃していた洛西高雄の神護寺再建に努めていた文覚は院に懇請し当荘を神護寺領にすることに成功(1185)。以後福井荘は荘域を拡大しながら荘園時代が終わるまで神護寺領として続く。
文覚時代の当荘は凡そ400町、大津茂川を境に東保と西保に分かれ東保の大部分は大津の地であった。地図で示せば姫路南高等学校の南側に連なる畠地(第1砂堆)を超えて大津小学校、大津中学校を含む畠地(第2砂堆)辺りまで開拓が進んでいた。一方、大津茂川下流域左岸の平松や吉美は、同川や揖保川が流出する土砂によって寄洲が形成され開拓が進んでいた。
これらの開拓は山野を開墾するのではなく、南へ南へと海を拓いていった特長がある。最後の仕上げが勘兵衛町。特記すべき目にみえる文化財は少ないが、まさにこの地区は、先人のたくましい開拓精神によって成り立った地域といわねばならない。
その壮絶な歴史をふまえ、この郷土で21世紀に生きる今をどう生きていくかは実に大切なことである。この機会にいろんな行事を通じて皆で改めて考えて行きたいと思う。
今後活かすべき地域資源、地域のキャッチフレーズ
地域のキャッチフレーズ
「高めよう『大好き大津』のまちづくり」
まちづくりの将来像
地域をよくするには実にそこに住む一人ひとりの力にかかっている。この夢プランは行政からの呼びかけで始まったものではあるが3つの小学校区の自治会を中心とする住民の総力で、上記計画に従って与えられたチャンスを有効に生かして活動して行かねばならない。
中学校区内では住民の民情等その歴史的背景そのまま、微妙な違いがみられるが『今この時期に何が必要か』という視点に立って住民の一体化を図り、これからの大津を考えるプロジェクトチームとして、行政、企業等にも発信し、確かな歩みをしなければならないと考える。
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