Vol.41 林業家 / 山田 尚弘さん
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東京から故郷へ。姫路の山を未来へ“育てる林業”という選択

「私たちは木を伐(き)る会社ではありません。山を預かり、育てる会社なんです」穏やかな口調でそう語るのは、株式会社山田林業代表取締役会長・山田尚弘さん。一度は東京で営業マンとして働きながらも、兵庫県へUターンし、家業である林業を選びました。独学と15年にわたる修業を経て、県内でも数少ない森林づくりの技術を受け継ぎ、現在は「山を育てる林業」を実践しています。幼いころは嫌いだった山、一度は継ぐことを反対された家業。それでも故郷へ戻り、自ら道を切り拓き、山と人生を育み続けてきた理由とは。
山田 尚弘(やまだ なおひろ)さん
朝来市出身。日本体育大学卒業後、リゾート関連企業で営業職を経験し、1995年に兵庫県へUターンして家業へ。生野町森林組合で林業の基礎を学び、作業道づくりの第一人者・大橋慶三郎氏に15年間師事。現在は山林所有者から森林管理を受託し、伐採から販売まで一貫して手がける。さらに、木質バイオマスや森林由来のCO₂クレジットなど新たな林業にも挑戦し、小学生を対象とした森林教育にも力を注いでいる。
林業は︎“木を伐る”のではなく、“山を育てる”仕事

日本の国土の約7割を占める森林。しかし今、その多くが手入れ不足や林業の担い手不足といった課題を抱えています。海外産材の流通拡大などを背景に、「林業では食べていけない」と言われる時代が長く続き、山は人々の暮らしから少しずつ遠い存在になってきました。一方で、適切に管理された森林は、水を育み、災害を防ぎ、豊かな資源を未来へ繋ぐ大切な役割も担っています。
そんな課題に向き合い、姫路で持続可能な森林づくりを目指し、「木を伐る」のではなく「山を育てる」林業を実践しているのが山田さんです。
「裏山の木が倒れそう」「一度山を見てほしい」といった連絡があれば現場へ駆け付け、山林所有者の森林整備の相談にも応じる身近なことから、山主から預かった木を、最も価値が高まるよう工夫を重ね、マーケットへ送り出し、その利益を山主へ還元する仕組みづくりまで。「山を持っていてよかった」そう思ってもらえることが、山田さんの目指す林業のあり方です。
「私たちは木を伐る会社ではありません。山を預かり、育てる会社だと思っています」。“一本の木”ではなく、”一つの山”を未来へ繋いでいくこと。その考え方が山田林業の根幹にあります。しかし、幼いころの山田さんにとって、山はむしろ「嫌いな場所」でした。
「山は継がなくていい」‥嫌いだった山と、自分で決めた進路

山田さんは、林業を営む家の五代目として生まれました。幼いころから、山主として自分の山の見回りに行く父に連れられ、山へ入る機会は少なくありませんでした。「山へ行くと、本当にしんどかった。休みの日くらい遊びに連れて行ってほしかったですね」と今だからこそ胸の内を明かす山田さん。山の境界や木の名前を教えられても、当時は「山=楽しい場所」ではなかったそうです。
そんな中、小学校高学年になるころ、父から「木の値段が下がってきた。林業は継がなくていい。勉強して、いい大学へ行け」と告げられます。それまで「家業を継ぐものだ」と言われて育ってきた山田さんにとって、その言葉は大きな衝撃でした。
しかし当時は深く悩むことはなく、中学生になるころには、「自分の道は自分で決めよう」という思いが芽生えていたといいます。高校卒業後は、日本体育大学へ進学することに。当初は体育教師を目指していましたが、全国からトップアスリートが集まる環境の中で、新たな挑戦を探します。
そこで出合ったのが「ライフセービング」でした。部員約200人のライフセービング部でキャプテンを務め、毎年オーストラリアへ遠征。世界レベルの大会へ挑み、厳しいトレーニングに明け暮れる4年間を過ごしました。厳しい上下関係や寮生活も経験しましたが、その日々が精神力と体力を鍛えてくれたと、当時を振り返ります。
「昔から人と話すのが好きでね。人たらしなところもありますから」。営業という仕事なら、自分の強みを生かせる。そう考え、大学卒業後は、教育の道を選ばず、東京のリゾート関連会社へ入社しました。
リゾートマンションやリゾート会員権の販売を担当し、全国を飛び回る営業マンとして、およそ3年間、数字を追い続ける日々が始まります。
東京で見つめ直した、故郷の山

(画像はイメージ)
営業の仕事は想像以上に厳しいものでした。リゾートマンションや会員権を販売するため、全国を飛び回り、ときには、お客さんを案内するためにグアムへ日帰りで往復することも何度となくありました。睡眠時間も十分に取れない生活が続き、20代前半という若さで帯状疱疹を発症するほど、過酷な日々でした。
訪問先で「帰れ」と怒鳴られることもあるなど、営業の現場は決して甘くありません。それでも、人と向き合い、信頼関係を築き、価値を伝える仕事にやりがいを感じていました。

そんなある日、姫路にいる父から一本の電話が入ります。「山はもうあかん。全部、土地ごと売る」幼いころ、「継がなくていい」と言われた家業が、本当になくなろうとする現実に直面します。
その知らせを聞いた山田さんの頭に浮かんだのは、東京で見てきた風景でした。休日になると、多くの人が山へ出かけ、自然を求める。リゾート開発の仕事でも、「山には価値がある」と考える人たちと数多く出会いました。
「木は“ただ”じゃない。山にはまだ価値がある」そう確信する一方で、父には決定的に足りないものがありました。それは、自ら山から木を伐り出す技術でした。「自分で木を伐り、出して、売ることができれば、この仕事は成り立つと思ったんです」。営業として数字を見てきた経験が、その可能性を教えてくれました。そして、先祖から受け継いできた山を、このまま手放していいのだろうか。その思いが日に日に強くなっていきます。
「俺がやる」そう父へ伝えると、返ってきたのは意外な言葉でした。「やめておけ。そんな仕事で生活できるわけがない」それでも山田さんの決意は変わりませんでした。「体力には自信がありましたし、人にできないことが自分にはできるんじゃないかと思いました」。1995年、山田さんは故郷・姫路へ戻ります。
師匠との出会いが変えた、林業と人生

Uターンして最初に始めたのは、林業の基礎となる「木の伐り方」を覚えることでした。生野町森林組合で受け入れてもらうも、その師匠は作業中の事故で亡くなります。山からご遺体を運び出した経験から、安全に山へ入れる道が必要だと痛感した山田さんは、作業道づくりを学ぶため、第一人者・大橋慶三郎さんへ弟子入りを志願します。
「困っている人を助けられるようになるまで教える」。その言葉通り、15年間にわたり、重機の操作や作業道づくりだけでなく、木や土、水の流れを見極める眼、自然と向き合う姿勢まで学びました。
「人間は自然を守っているんじゃない。自然に抱かれて生きている」。その教えは、山田さんの価値観そのものを変えました。

そして今、山田林業の強みとなっているのが、15年かけて受け継いだ技術と「木を見る眼」です。「木は一本一本、生命力が違います。その力を見極めて残さなければ、100年、200年続く森にはなりません」。
「山を育てる林業」は、兵庫県でも受け継ぐ人が少ない貴重なもの。だからこそ、次世代へその技術を伝えることも山田さんの重大な使命です。
「木も人も同じなんです。一本だけでは生きられません。互いに支え合い、それぞれが健全に育つことで森全体が強くなる」。山田さんが大切にしている「中庸(ちゅうよう)」という考え方も、森から教わったもの。山で学んだその姿は、人づくりや商売にも通じると山田さんは言います。
東京ではできないことが、姫路ではできる

一度故郷を離れたからこそ、姫路の魅力や可能性が見えるようになったと話す山田さん。そんな山田さんが大切にしているのが、大きな組織の末端になるより、小さくても先頭に立つ方がいいという意味をもつ「鶏口牛後(けいこうぎゅうご)」という言葉です。その言葉通り、自ら道を切り拓きながら、故郷で山を育て続けています。
「東京では頭角を現すのは難しい。でも姫路には、挑戦できる土壌がある。自分がやりたいことを形にできる。だから、このまちが自分には合っているんです」

山を守ることは、地域の暮らしや未来を守ることでもあります。東京ではかなわなかった挑戦を、姫路の地で一つひとつ形にしてきた山田さん。今日も100年先の森を思い描きながら、持続可能な森林を未来へ繋ぐため、次の世代へ繋がる道を山の中に切り拓いています。

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